【美術】高畑勲展5 赤毛のアン
孤児だったアンは、母をたずねて三千里のマルコの愛しいお母さんのような存在はいませんでした。
しかしながら、グリーンゲイブルズに来て、マルコとお母さんの関係にも劣らない、
いつまでも一緒にいたいと思う人達と出会うことになります。
どうしてアンはそういう人と出会えることができたのでしょうか?
運が良かったという人もいるかもしれません。
確かにそういうこともあるでしょう。
しかし、それ以上にアンは自ら人に心の光を与える存在であったからだと自分は思います。
現代において人は孤独であるとよく言われます。心を許せる信頼できる人が現れない。
どうして現れないか。
損したくない、傷つきたくない、 こんなことしたら変に思われるんじゃないだろうかという思いで接すれば、
その相手も、損したくない、傷つきたくない、 なるべく余計なことは口に出さないでおこうというスタンスであなたに接するでしょう。
しかし、アンの想像力や空想力、発想力というものは、そういうものとは無縁の、
無限に他人に与え続けることができる、純粋で無垢で、インスピレーションをくすぐるもので、
それに接した人に心の光を与えるもの。心の糧になるもの。
高畑勲さんが監督したアニメ「赤毛のアン」のオープニング、
アンの豊かな想像力や空想力が空に羽ばたいて、四季折々の大地を駆け巡っていく。
そういうイメージを見事に表現しています。
彼女の心の光に触れてシナジーした人は、その光の存在を求めて、
おのずからアンのまわりに集まっていく。
そう思います。
それではアンは、そのような想像力や空想力、発想力を、どこで自分のものとしたのでしょうか。
それは読書でしょうね。
小説や詩、戯曲を読んだり、カナダはイギリスの文化の影響を大きく受けた地域ですから、
アンのちょっと大げさな言い回しはシェイクスピアの舞台の影響もあるのでしょう。
アンの読書は、読んだ作品の内容を脳に蓄積するのに努めるというよりも、
感動した言い回しや素晴らしい表現は何回も繰り返して自分のものとしたり、
彼女自身が表現者ですから、こういう場合、シェークスピアだったらどう表現するだろうと想像を巡らしたり。
日本人がする几帳面な読書とはちょっと違う、
アグレッシブな読書といいますか、アウトプットありきの読書といいますか。
というわけで、自分も今回の高畑勲展で、こちらのブックカバーを購入しました。
アンの読書を見習うために(笑)
アニメ「赤毛のアン」の原画が描かれたもの。
実際に使うとこんな感じです。
自分は10代ではないので、電車やカフェなど人目につくところは止めて(笑)
家でこっそり読む本に使うつもりです(^_^;)
高畑勲さんが監督したアニメ「赤毛のアン」
オープニングのみならず、その本編も素晴らしいものです。
細かい背景の自然の描写まで手を抜くことなく、
それはグリーンゲイブルズの自然は、アンのイマジネーションに不可欠なものですから、手を抜けないものなのですが、
よくも週1回のペースでこれだけのクオリティーのものを作れたなと思います。
ストーリーも原作に忠実ながら、登場人物の表情など、独特の表現を付加して、より豊かなものにしており、
原作とは別に見ていただきたい作品です。
原作を知っていて、アニメを見たことない方は感心すると思いますよ。