【美術】高畑勲展6 火垂るの墓
今までの記事で、
一緒にいたいと思う人と一緒にいることが人間にとって最上の幸せということ。
これが、高畑勲作品の一貫したモチーフではないかという話をしました。
それに真っ向から立ちはだかるもの、それが戦争です。
ひとたび戦争が起これば、家族は兵隊に取られバラバラになり、
国土が攻撃を受けるようなことがあれば、残された家族も引き裂かれてしまう。
戦況が悪化し、社会が混乱すれば、
人は皆、自分が生き残ることに必死で、それで精一杯になってしまい、
他の者達にまで心を回すことができなくなってしまう。
その結果、弱い者から死んでいく、
又、他人に心をかけた者から死んでいくことになる。
しかし、人はそれを横目で眺めるだけで、どうすることもできない。
戦争は弱き者、優しき者達が一緒にいたいという素直で素朴な思いを、
事も無げに踏みにじっていくものです。
高畑さんにとって、戦争はハッピーエンドであってはならない、救いのあるものであってはならない
というメッセージを強く感じます。
その結果、生まれたのが「火垂るの墓」という作品に思います。
今までのファンタジー的な作品とは一線を画するこの作品ですが、やはりモチーフは同じことを謳っているのではないでしょうか。
ハリウッドの戦争映画のように、一人の英雄が華々しく敵を蹴散らし、
見事に輝かしい勝利をもたらすというようなシナリオは高畑さんは全く好まなかったでしょうね。
国民が大勢犠牲になるような戦争は、70年前の昔のもので、
現代戦はそのようなものは無いと言う方もいらっしゃるかもしれません。
しかし、戦争とは基本的に相手の力を削ぐことに全力を傾ける行為であり、
相手の力を削ぐとは、工業設備やインフラ、国民への精神的ダメージあらゆるものに及びます。
つまりは、相手に今までの営みをできないようにして参らしてしまうもの。
ですから、自分には、実際に戦争が起きてみないと、
それはわからないとしか答えようがありません。
高畑さんは、戦争への拒絶感は人一倍強かったんでしょうね。
平和憲法護持を標榜する特定政党への支持を
明らかにされています。
しかし、自分は、アーティストや芸術の表現者が特定政党への支持を明らかにすることをあまり好みません。
なぜなら、芸術表現というものは全人類のために為されるべきもので、
特定の党派の宣伝であってはならないと思うからです。
しかしながら、火垂るの墓を見るに、
この作品は全人類に対する課題として戦争を表現していると感じます。
死んで逝く者にアメリカが憎いというセリフを殊更に吐かせたりという事は皆無であり、
ただ、あるのは、戦争というものを冷徹な目で観察した徹底的なリアリズム。
そこに高畑勲さんの作品が 広く人々から愛されるゆえんがあると感じます。
宮沢賢治は熱心な法華宗の信徒でしたが、作品の中にその宗旨を感じさせるところはなく、
自然を含めた生きとし生けるものへの慈しみというものしか感じません。
高畑作品にはそれと同じものを感じます。
思うに高畑勲という人は、自分の思想を表現する芸術家である以上に、
職人であるのだと感じます。
職人は空想では物は作れませんから、リアリズムを追求することになります。
彼の作品に説得力があるのは、そのバックボーンがあるからではないか。
宮沢賢治も農学校の先生、いわゆる理系の先生ですから同じことが言えるでしょうね。
農学校の教壇に立つ宮沢賢治