らんどくなんでもかんでもR

はじめまして。文学や美術、音楽、そして猫のブログをしています。 よかったら、のぞいてみてくださいね。 Nice to meet you. I write about literature, art, music, and cats.

【閑話休題】お盆に考える あの世は果たしてあるか 後編 

 

後編です。

ー果たしてあの世はあるのか。
あの世から戻ってきた人はいませんし、 戻ってきたと言う人も本当なのかなというところはあります。
自分の考えは、死ねばわかる(笑)

 

論語に次のような一節があります。

 

季路曰わく

敢えて死を問う

子曰わく

未だ生を知らず焉んぞ死を知らん

 

季路は

「敢えて問いますが、死後の世界はどのようなものでしょうか?」

と尋ねた。 

孔子は、
「まだ生についても分かっていないのに、

どうして死後のことなど分かろうか。」
と答えた。

 

という問答に近いものがあるでしょうか。

 

これだけ古今東西様々な人々が、あの世の存在について検証しても、

明確な答えは出ていないわけですから。

考えるだけ無駄という気もします。
まあ死ねばイヤでもわかるんだから、

ここで考えてもしょうがないんじゃない?

というところです。

 
しかしながら、そんな自分でも、あの世の気配を感じるところはあります。


そもそもあの世とは、どういうところから発生したのでしょう。

自分も若い頃はわかりませんでしたが、

父が亡くなり、学生時代の友人や会社の同僚も何人か亡くなり、

そして今、ランスを抱っこしてその温もりを肌で感じながら思います。


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相手を愛おしく思うということはとても素晴らしいことです。

それは家族だったり、友人だったり、恋人だったり、

対象は人それぞれでしょうが、

心がときめいたり、心が温かくポカポカしたり。

それこそが生きている証というものです。

 

そういった存在が肉体が死ぬことで、はい、0になりました。

というのはとても信じられるものではない。 
肉体は無くなっても、その心はどこかに存在しているに違いない。

と考えるのが自然ともいえます。


これが原始の人が考えたあの世の始まりであると思います。


そういう思いのある人にとっては、あの世とは自分の心を満たしてくれる、穏やかで安らぎのあるとても良い場所です。
人によっては、そこを極楽と呼んだり天国と呼んだりするかもしれません。

そこには地獄という観念は生まれてきません。

そういう思いの無い人、もしくはそういう絆の薄かった人は、

死んで会いたいという人がいないわけですから、

あの世は極めて印象の薄いもの、もしくは存在しないものなわけです。
つまりはテレビの電源が切れて画面に何も映らない状態。 
命の気配のしない0の状態。 

人によってはそれを地獄と呼ぶ人もいるかもしれません。 


つまりはこの世で、心を契り合って、

いつまでも一緒にいたいと心に願ってきた対象がある人にはあの世というものがあり、
それが無い人にはあの世というものはない 。

そのような相対的なものではないかと感じます。

 

自分が願っているところに行くという意味では、

通説的なあの世の世界よりも、スウェーデンボルグの説くあの世の方が自分に近いと言えるかもしれません。

 

 


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古代人の埋葬によく見られる「屈葬」
体を折り曲げたその形は、母親の胎内にいた時と同じ姿勢ともされ、

また頭を東に、脚を西に向けている場合も多く、

ここから「再生」、つまり沈んだ太陽がまた昇るように、

何らかの形で「生き返る」、あるいは「生き返って欲しい」という想念、あるいは願望を込めたものとする説もあります。

そういう意味では、科学的に立証できないものの存在を疑い、否定する現代の我々より、古代人の方が天国に近い存在といえるかもしれません。