らんどくなんでもかんでもR

はじめまして。文学や美術、音楽、そして猫のブログをしています。 よかったら、のぞいてみてくださいね。 Nice to meet you. I write about literature, art, music, and cats.

【万葉集2013】10 君が行き日長くなりぬ

 
 
君が行き
日(け)長くなりぬ
山尋ね
迎へか行かむ
待ちにか待たむ
 

磐姫皇后(いわのひめのおおきさき)
 

我が君が行幸(いでまし)になられて
もうずいぶんと日が経ってしまった
山道を辿って
お迎えに行こうか
このままじっと待っていようか

 

磐姫皇后は五世紀に在位していた仁徳天皇の后で、
これは、長い間、行幸から戻らない夫仁徳天皇を思って詠んだ歌です。

実はこの歌、随分前から知ってはいたのですが、
今ひとつピンとこないところがあったんです。
夫のところに行くべきなのか、留(とど)まるべきなのか
迷って思案している歌ですが、
それだけでは、すとんと心に落ちず、
これはもっと大きく、人生が岐路に立った時の
迷いの気持ちなども含んでいるんだろうか…
などと深読みしたりしていました。

ですから今まで、この歌を記事にすることができなかったのです。

ところが、最近ブログで知り合った高校生の女の子で、
万葉集の記事を書いている人がいて、
ある日の記事で、この歌について触れていました。
 
それを読んで、自分は、
あー、この歌はそういうことを詠んでいたのかと、
初めて目が開けたというか、
この歌の真意を解く鍵を手に入れて、その箱が開いたというか、
そんな気持ちになりました。

彼女曰わく、

(この歌は)女の子の気持ちがそのまま歌になったような
私にも気持がわかります。
 
大好きな彼が旅に出たけど、ちっとも帰ってこない
山道を越えてでも迎えに行きたいわ、
いいえ、でも私は家で待って居ますわ



ああ、そうか、この歌は女の子の気持ちを詠んだものだったんだなと。

この「女の子の気持ち」というわずか9文字を頭に入れて読むと、
今まで、行くか留まるか決めかねていた重苦しい雰囲気の歌が、
生き生きとした瑞々しい感じに変わったことに少々驚きました。

自分は一応男の子で(^_^;)、どちらかというと待たせる立場なので、
待っている女の子の気持ちがわかっていなかったところもあります。
また、天皇やら皇后やらそういう偉い身分や
歴史的背景のなものに囚われてしまって、
1人の女性が想いを寄せる男性の身を純粋に案じるという
素の人間の気持ちの部分を見逃してしまっていたところもあります。

自分は、高校生の彼女より倍ほども生きていますから、
その分、たくさんの経験と知識を蓄えていたはずです。
しかし彼女はこの歌を感じることができ、自分はできなかった。

それは、今までの経験なり知識が却ってその邪魔をしてしまっていたのです。
知識というものは、確かに目を開かせるものですけど、
場合によっては目を閉じさせもするものなんです。
知識に依存して、それが素直に感じることの妨げになれば、
知識はその人にとって却って有害なものになってしまいます。

何でもそうですが、効用の高い薬になるようなものは、
同時に毒ともなりうるものです。
ですから知識は処方(扱い方)を間違えると、
人の目を閉じさせる毒になってしまうんです。

知識のある人イコール賢い人といえないのは、そういうゆえんです。


「自ら見る者は明らかならず。
自ら見ず、故に明らかなり。」(老子

みずから見識ありとする者は物事がよく見えず、
みずから見識ありとしないからこそ、物事がよく見える。

とはそういう文脈なのではないかと思うのです。