らんどくなんでもかんでもR

はじめまして。文学や美術、音楽、そして猫のブログをしています。 よかったら、のぞいてみてくださいね。 Nice to meet you. I write about literature, art, music, and cats.

「母」坂口安吾

 
母及びその母性というものは、
イメージ的には、常に温かく、柔らかく降りそそいでいるものであり、
子どもが、健康だとか病気だとかによって分け隔てのないもの、
というよりむしろ病気の時ほど、
それは強くなるものというイメージがあります。

しかし、この坂口安吾の作品に出てくる「母」は、
そのイメージとは、かなり異なります。

主人公の友人辰夫の母は、
息子が精神を患い、ツラい孤独な入院生活をしているにもかかわらず、
全く見舞いなどにも行かず、
彼を支え、愛してやろうというそぶりが全く見られません。
というより却って、忌み嫌い、あわよくば、そのまま捨ててしまおうと
しているのではないかと感じてしまうほどです。

主人公が、辰夫の家に行き、
退院の手続をとるように促したり、金銭や食品の差し入れを頼みに行っても、
「ふふん、気狂いは決して治る病気ではありませんよ」
と冷笑を浮かべたり、
「気狂いのくせにバターが欲しいなんてそんな僭越な奴があるでしょうか、ねえ…」
と吐き捨てたり、
訪ねてきた主人公に対して息子の悪口三昧。
母性の欠けらも見当たらず、
この女性は、本当にこの辰夫を産んだ
実の母だろうかと思ってしまうほどです。

一方、精神を患う息子の辰夫は、
自分の家族についてだけには温い愛を信頼しています。
家族の愛を信じ、それが病の身の最後の支えになっているぎりぎりの状態。
存在しないものを存在すると信じ込む自己暗示のようなもので、
かろうじて心の安らぎを保っていると言ってもよいのかもしれません。

そんな辰夫も、季節がちょうど今時分の春のはじめの時に、
やっと退院する運びとなり、
私鉄の改札掛として遠い地に住むことになります。

そしてしばらくして、退院した辰夫を訪ねに行く主人公。
そこで、辰夫と同居する、例の母と再会します。
そこで見た母の姿とは…

主人公曰わく、
「あの神経質な又冷淡な母親を予想してゐた私は、
そこに全く思ひがけない物静かな、
その温顔に神へのやうな深い感謝を私に浴せる老いたる
母を見出して呆然としてゐた。」

自分は、最初これを読んだ時、
母のその豹変ぶりに驚くとともに、
彼女が非常に御都合主義的で、自分勝手な人間のように感じざるをえませんでした。
息子が精神病院に入院している時は、
見舞いにも行かず、散々悪態をつき、
退院して息子が勤めるようになると、
一転して今までの自らの数々の言動がなかったかのように、
ぬけぬけと息子と一緒に生活する。
一体どのツラ下げて…という感じであり、
ある意味、母性の対極に存在する女性なのではないかとすら感じたのです。

しかしながら、主人公は、
この母の態度や様子について、
自分の印象と全く真逆の感想を述べています。

曰わく、
「歎息に似た自卑と共に、
世に母親ほど端倪すべからざるものはないと教えられた。」

「端倪(たんげい)すべからざる」とは難しい言葉ですが、
奥が深くて計り知れない
というような意味に捉えていただければよいと思います。

どうして作者が、このような母に、
最大限の讃辞ともいえる評価を与えているのか…
自分は最初、ピンと来ませんでした。

そこで坂口安吾の代表作といわれる作品をいくつか、斜め読みですが、
読んでみて、ふと感じて思ったことがあります。

友人の辰夫は曲がりなにも精神病院を退院でき、
普通の生活を送れるようになった。
母親も入院中息子について見舞いにも行かず、
散々悪態をついていたけれど、
退院後は息子について行き、つつましやかにその生活を支えている。

つまり、辰夫が入院中、唯一の寄りどころとしていた
家族を信頼する、信じる思いは、
確かにここに実現しているのではないか。

今ここで母親の態度の豹変を批判したところで、
例えば、過去の言動を懺悔させたりしたところで、
この母子の間で、今以上の状態を望むことができるであろうか。

すなわち、物事とは「結果」の善し悪しこそ最終的に論ずべきことであり、
それ以上に「過程」の善し悪しを仰々しく論ずるべきではない。
というようなことです。

坂口安吾風に別の言葉でいえば、
美しく死ぬことよりも堕ちても生き抜くことの方が価値があるといいますか。

確かに、入院中の母の言動は思いやりのある美しいものではなかった。
しかし、だからといって、入院中、さんざん息子の悪口を言ったので
息子とは一緒に住めないという結論が、
果たして母子にとって一番よい結果になるといえるだろうか。
たとえ過程はどうあれ、退院した息子と一緒に生活し、生きてゆく方が、
息子もそれを望んでいるのであれば、
母子共にとって一番実のある結果なのではないか。

この作品、友人が退院してからの記述が僅かであるため、
母の態度の豹変についての理由についても、
母親自身の台詞などで、具体的に描写するところがないため、
作者の意図が少々わかりにくいところがあります。

しかし作者は、母の表情を描いたあの簡潔な描写で十分だと思ったのでしょう。
なぜなら、穏やかな母親の表情という「結果」が全てを物語っており、
あれこれ、そうなった理由を語らせることは、
「過程」に仰々しく語ることになりかねないからです。

この母の示したものが果たして母性か?と問われれば、
そういう母性もあるのかなという感じではあります。

ある意味、これは、母ないし母性というものを借りて、
作者坂口安吾が自らの信条とか、哲学といったようなものを、
強く主張した作品のように思いました。