【クラシック音楽】ウィーンを彩るクラシック音楽 シューベルト
今回はウィーン・モダンの番外編として、ウィーンを彩った作曲家たちをお送りします。
まずはシューベルト。
クラシックの醍醐味は演奏によって曲の表情が変わるということ。
ちょっと無理矢理、読書に例えますと、外国文学の翻訳によって作品の印象が変わるというところでしょうか。
この前の記事でサラ・ブライトマンによるアヴェ・マリアを紹介しました。
サラ・ブライトマンは、羽毛のように軽やかな、まさに天上の音楽。
かぐや姫が月の天女から衣を着させられるや人間の感情が全て無くなり、
天に昇っていったというくだりがありますが、
まさに人間の苦悩といったものを全て脱ぎ捨て天に昇っていく。
そんな感じがします。
- AVE MARIA DI SCHUBERT - MARIA CALLAS -
それに比べると、マリア・カラスのアベ・マリアは、
地上にとどまって人間の悩み、苦しみというものを含んだ世界を歌っています。
ちなみに男性による歌唱も素晴らしいものがあるのですが、
こちらのパヴァロッティの歌唱。
歌の世界というよりもパバロッティの美声を聴くべき音楽と言うべきでしょうか。
クラシック音楽に馴染みのない方は、同じ楽譜なのに、何でこうも曲の感じが変わるのかとおっしゃる方もいるかもしれません。
クラシック音楽という芸術は再現芸術、つまり作曲した人と演奏した人が異なるということが通常であります。
楽譜というのはコンピューターのデータのように、
その曲の言わんとすることを全て漏らず書いてあるというわけではなく、
演奏者に解釈を任せている部分があります。
というわけで、同じ曲でも無限のバリエーションの演奏があり、
そこにクラシック音楽の魅力があるというわけです。
それでは作曲者による演奏がその曲の魅力を一番引き出しているかというと、
必ずしもそうではないところに面白いところがある。
例えて言うなら、曲というのは、いやば作曲者が生み出した子供のようなものですが、
親が子供の内なる魅力を一番引き出せるかというと必ずしもそうではない。
その曲にインスピレーションを受けた演奏者が、
作曲者以上にその曲の魅力を引き出してしまうということがあるわけです。
子供の内なる才能を赤の他人が見出だして育てることがあるように。
そこがクラシック音楽鑑賞の素晴らしいところのわけです。
以前に同趣旨のことを書いた記事です。
もしよかったら、本でも読みながら聴き比べしてみてください。