らんどくなんでもかんでもR

はじめまして。文学や美術、音楽、そして猫のブログをしています。 よかったら、のぞいてみてくださいね。 Nice to meet you. I write about literature, art, music, and cats.

【美術】ムンク展 4










芸術作品は背後にある資料を排して、できるだけ作品のみを自分の感性で

直感的に見るべきという直観主義の自分ですが、
極めて例外的にではありますが、
作品が描かれた背景を知っておくと、興味が増すというものも存在します。

例えば、歴史的事件を題に取った作品です。








ムンク「マラーの死」


マラーとは誰かということですが、
この人です。と言ってもご存知ないかもしれません。







マラーはフランス革命ジャコバン派の革命家で、
ロベスピエール、ダントンらとともに革命穏健派を攻撃し、
ルイ16世マリー・アントワネットを処刑、反革命派の虐殺にも関わった
過激ともいえる急進派の人物です。

マラーは患っていた皮膚病治療のため、
自宅の浴槽に浸かりながら職務を執っていましたが、
ある日、彼の元にシャルロット・コルデーという美しい若い女性が訪れます。

マラーの浴室に入ると、彼女は隠し持っていたナイフでマラーの胸を刺して暗殺。
コルデーは穏健派の支持者でした。

彼女は逃げることなく、部屋にそのままとどまっていたところを逮捕され、
数日後ギロチンで処刑されるのですが、
処刑の間際まできわめて気丈夫であったと伝えられています。




ちなみにマラーの死といえば有名な作品はこちら。





ダヴィッド「マラーの死」


浴槽の縁に腕がだらりと下がり、苦しそうにうつぶして絶命しているマラー。
しかし、その死に体の美しさは、
十字架から降ろされたイエスのような神々しさすら感じます。


ダヴィッドはマラーと同じジャコバン派の革命主義者だったそうですが、
マラーの死をクローズアップし、殉教性を高めるためでしょうか、
犯人のシャルロット・コルデーは作品中に描かれていません。






処刑直前描かれたシャルロット・コルデー肖像画



この美しい若き女性に暗殺されたマラーの死という題材は、
後世の画家たちの感性を刺激したらしく、
様々な画家によってこの題材が描かれています。






こちらの作品は、犯人のシャルロット・コルデーが描かれています。

凛としたその表情は、意志の強さのようなものを感じさせます。
マラーよりもシャルロット・コルデーに焦点を合わせた作品といえます。






こちらも同様ですね。




そして再びムンクの描いたマラーの死。






今までの作品とはかなり異質な絵です。

ベッドに横たわっている男はすでに事切れており、
そこからは死人の生前の意志などというものは一切垣間見られません。
革命への殉教などという精神性などのかけらもなく、
完全に冷たくなってしまった骸に過ぎません。

その横で、ぼーっと立ちすくしている裸の女性。
背景を知らなければ、情を交わした女が男を殺した絵にしか見えないでしょう。
ある種の薄気味悪さ、おどろおどろしさを感じざるを得ません。
女性の様子からは、他の作品に見られるような、
正義感や気丈夫さといったものは全く感じられません。

感じられるのはある種の空白感。
うつろと言うとまだ人間の意志を感じさせますが、
作品のそれは、空白感としか形容の仕様がなく、女の薄気味悪さを増大させています。



マラーの死と題する作品で、
ムンクはなぜマラーとシャルロット・コルデーを裸で描いたのか。

歴史的には、マラーは皮膚病治療のために浴槽に浸かり、そこで執務を執っており、
その状態で、シャルロット・コルデーと面会したと言われています。
マラーの浴室で何があったかは、もはや神のみぞが知るところではありますが、


ムンクがここで言いたかったのは、

肉体のある人間の死というものに、
聖人画のような美しい死などというものはありはしない。
生々しい人間の死があるだけだと言っているようにも感じます。
二人を裸で描くことにより、人間の生々しさが一層あらわにされているようにも思います。



歴史上世間から聖人の扱いを受けた男と、聖女の扱いを受けた女。
しかし、命を失ってしまえば英雄的な男もただの骸であり、
正義的行動によって男を殺した女も充実感などというものはなく、
ただ空白感が存在するのみ 。
死にまつわるものは、おしなべて空白な状態に支配される。
そのようなムンクの死生観を表しているようにも思います。