らんどくなんでもかんでもR

はじめまして。文学や美術、音楽、そして猫のブログをしています。 よかったら、のぞいてみてくださいね。 Nice to meet you. I write about literature, art, music, and cats.

「猫と杓子について」織田作之助







そういえば最近、「猫も杓子も」という言葉をほとんど聞くことはありませんね。
「猫も杓子も」というのは、どいつもこいつも、皆総じて、という意味の言葉であり、
多少、こんな奴らでも、という軽んじた語感を含んだものに思います。

しかし、この言葉、元々は猫も杓子ではなく、
禰子(ねこ)も釈子(しゃくし)もであったといわれ、
神様の弟子も、釈迦の弟子も、みんな一緒にという言葉であった説が有力だそうです。
そうしますと、猫にとっては迷惑な話というわけで、
猫飼いの自分としては、猫の冤罪を声を大にして主張したいと思っています(笑)



さて、この作品は、日本の敗戦直後、織田作之助が、
これからは新しい文学を志向しなければならないという決意を顕にした、
かなり硬派な作品となっております。

織田作之助は「夫婦善哉」 など、大阪の人情ものを書かせたら
右に出る者はいないと言われた作家ですが、
この時期、出版社からエロチズムと文化というテーマを与えられ、
かなり憤っています。

曰く、エロなんていうのどうでもいいんだ。
戦後、国威発揚といった国を挙げてのテーマが消失してしまって、
新しい価値観が見出せなかった戦後直後の混乱期、
出版社的には、とりあえずエロで繋いで行こうということだったのかもしれません。
まあ、それは今でもあることですし。

織田作之助は怒っています。
猫も杓子もということは、要は自分の頭で考えないということであり、
自分の頭で考えないということは、他人の考えを拝借するということである。 
明治維新以来、日本は西欧列強に追いつけの号令のもと、
自分の頭で考えるというよりは、西洋文明の考えてきた事を追いかけ、
つまりは西洋人の頭を借りて歩んできたといえます。
それは一時期、成功したかに見えましたが、
結局は他人の頭で考え続けていたことで、
追いついた後の発想の貧困さを露呈し、敗戦を招いてしまったともいえます。
だから、焼け跡で何もなくなった今、
猫も杓子もではない自分の頭では考えなくてはいけないのだということを、
筆者は口から唾を飛ばして主張します。

著者は、古典といわれるものについて一定の敬意を払いつつも、
しかし、それがいかに素晴らしいものだとしても、
それに寄り添うだけではダメであり、
二流三流五流であっても、自分のオリジナルの頭で考えた作品を、
造り出していかなければならないと力説します。

このように力強く主張した織田作之助ですが、
1947年1月、日本の敗戦から1年半後結核にて亡くなりました。
享年33歳。
この文章の意気込みからすれば、かなり無念の死だったことでしょう。

しかし、この主張は、今も通用するものといえます。
他人の頭でしか考え得ないものは、いずれ痩せ細って衰えていくものです。

現代でいえば、今のテレビなどはそうかもしれません。
オリジナルの番組、冒険的な番組を作成することなく、
他局の人気番組のマネをしてイイトコ取りで追随して行く。
今日若い人達の間で、テレビが話題になることはほとんどありません。
それでもテレビ局は昔の成功した手法を繰り返し、
何十年経っても、同じ出演者に、同じ番組、同じ方法を繰り返していく。
とはいっても、いまだにテレビ業界は力を持っており、
まさか倒れることなど有り得ないと総じて思っていますが、歴史の教訓からすると果たしてどうでしょうか。







大阪自由軒のカレー
織田作之助は、このカレーライスが大好きで、よく通っていたそうです。
「虎は死して皮を留め 人は死して名を残す」
をもじって、「織田作(彼の愛称)死んでカレーライスを残す」 (笑)
相当ここのカレーライスが好きだったんでしょうね。
残念ながら、自分は食べたことありません。
大阪に行ったらぜひ食べてみたいものです。








「猫も杓子も」で、猫はえらい迷惑をこうむっているんです。
織田作さんもよく調べてから使ってもらわないと、
猫的にも本当に困るんです。