らんどくなんでもかんでもR

はじめまして。文学や美術、音楽、そして猫のブログをしています。 よかったら、のぞいてみてくださいね。 Nice to meet you. I write about literature, art, music, and cats.

「鬼と人と 信長と光秀」堺屋太一









織田信長という人物は、戦国の日本に突然変異で現れた、
新しい人類かもしれないと思う事があります。
確かに父親の信秀は有能な武将ではありますが、 
中世の因習から抜け出している人ではありませんし、 
信長の子供についても、いずれも平凡な普通の人です。
ただ信長だけが唯一突出している。

堺屋太一氏は、信長の生涯は、
世界史上の大改革者にも見劣りがしないほど独創的なもので、  
その人生は改革と創造の連続で、
多方面にわたる改革をほとんど誰に教わることもなく、
ただ自分ひとりの信念と構想でやり遂げた人物と評しています。

この小説は、かように突出した存在である織田信長を、
中世の教養人たる明智光秀と対比させ、
同じ事象を、片や信長に語らせ、片や光秀に語らせることにより、
信長の発想の新奇さ、斬新さを浮き彫りにしようと試みたものです。

それにより浮き彫りになった信長の特徴とは、
端的にいえば、徹底した合理性ということになるでしょうか。

鳴かぬなら殺してしまえホトトギス
この句は信長の短気な性格を詠ったものといわれていますが、
信長の合理性とは、5年かかるべきところを5年でやるのは合理的なこと。
1日でできることを3日かかる事は非合理的で許されるべきことではない。
殺してしまえというわけです。
そこのところが短気と誤解されているところがあります。
実際、信長は美濃攻めや石山本願寺との戦いに何年も費やしており、
短気というよりは、むしろ粘り強いとすらいえます。

一方明智光秀は中世の教養に重きを置く人物です。
中世の教養とは言ってみれば、中世社会とのしがらみです。
因習といってもいいかもしれません。

戦国時代というのは、能力主義のように言われていますが、
実は中世的なしがらみが大きく幅を利かしていたのです。

信長と光秀の考え方の違いが特に面白かったのは、
滅亡した名門武田家の捉え方です。
光秀から見ると、武田家は質実剛健の家柄であったが、
時に利あらず滅亡してしまった。
信長から見ると古くさい時代遅れの、滅びるべくして滅びたものに過ぎない。

なぜそのような真逆な評価になるかと申しますと、
光秀は中世の伝統に則り、その権威を尊重する武田家を評価していますが、
信長は中世のしがらみから抜けきれず、
新しいシステムに移行できなかった武田家の評価は当然低いわけです。

また、信長の戦法はきわめて斬新です。
信長の取った戦法は何十年後にヨーロッパの戦争で初めて用いられたというものも少なくありません。
船に鉄板を張り、敵の火砲を弾き返すという鉄甲船という発想も、
海育ちでもない信長の一体どこから生まれたのでしょうか。







それよりも信長で注目すべきところはその商業政策です。

中世的には関所を設け、そこを通過する商品に関税をかけ、
それが主な商行為に対する収入源でした。
信長はこれを全廃し、また商業を独占していた座を廃止し、
オープンで自由な流通を旨としました。
いわゆる、楽市楽座という制度ですが、
信長は流通というものが大きな利を生むということがきちんとわかっていた。
これは囲いこんで、とにかく手早く利益を確保しようとする
それまでの考え方とは真逆な発想で、
それを実行に移したというのはおそるべきことです。
信長の経済政策は現代でも通用する合理性、先進性があるようにも思います。

堺屋太一氏はその発想は統制経済固執して崩壊した、
旧ソ連の政治家にも勝ると述べています。







中世的しがらみに縛られた人々には、
このような信長の合理的発想はとても理解できなかったでしょう。
どうしてかはわからないけれども、
言う通りにすれば勝つ、儲かるという不思議な感覚だったのではないでしょうか。


信長の行動は合理的ゆえ、中世的思考からかけ離れて予測不能であり、
いったいどこから何が出てくるのか全くわからなかった。

堺屋太一氏はそれを「人」に対して「鬼」と表現しているわけです。

それを説明して理解させればよかったのかもしれませんが、
信長から言わせれば、それは非合理的な無駄なこと。
黙って俺の言うことを聞けばよいというところだったでしょう。

秀吉は皮膚感覚でそれがわかっていた。
柴田勝家は全くわからなかったでしょうが、がむしゃらに信長に従う鈍さがあった。
繊細な教養人光秀は悩んだと思います。
そして間近にも理解できる者がいなかったため、一人で悶々と悩んでいた。
いつどこで何が出てくるかわからない信長の命令に、
脅える日々を送っていたのかもしれません。

そういう日々得たいの知れぬ不安感で心がいっぱいになり、
ひょんなことで、何か光秀の心に1滴に落ちるものがあって、
表面張力がはじけ、溢れるように、本能寺の所業に至ってしまった。

自分はそのように感じます。


しかし、合理性のない人間に天下を束ねることなど所詮無理なこと。
光秀は様々なしがらみに絡められて身動きが取れず、自滅していきます。
死の直前、光秀ははじめてそれに気がつきます。

小説の最後に、
「いかがいたしましょうや上様。」
と自分の取るべき行動を亡き信長に尋ねる光秀の姿は、象徴的です。

信長亡き後、その跡を継ぐことができたのは、
皮膚感覚で信長の合理性を感じ取っていた秀吉のみ。
合理性という感覚に劣る家康は、
たとえ信長の死の直後、覇権を握ったとしても、
結局しがらみに絡まれ、有力な群雄のひとりで終わったかもしれません。

この小説は信長の合理的な思考回路がどのようなものであったか明快に叙述されており、
中世的人物である明智光秀との対比により、
なるほど両者との思考の間には、これほどの違いがあったのかと知らしめる非常に面白い作品です。

ただ、堺屋太一氏の作品は、先に分析ありきの感があって、
いささか詩情に乏しいところがあります。
が、しかし、それを差っ引いても、唸らされる説得力があります。
信長という人間の頭の中を知りたい人にお勧めの作品といえます。








織田信長肖像
イエズス会 セミナリオ教師ジョバンニ・ニコラオ筆