らんどくなんでもかんでもR

はじめまして。文学や美術、音楽、そして猫のブログをしています。 よかったら、のぞいてみてくださいね。 Nice to meet you. I write about literature, art, music, and cats.

「透明猫」海野十三

時は昭和二十年代半ば。
主人公の青二くんは、親思いの、とても気だてのよい少年です。
年の頃、中学入る前後くらいでしょうか。

ある日の夜、少年は、夜勤の父のためにお弁当を届けに行き、
その帰りに不思議な猫を見つけます。
目玉だけが光って、体の部分が透明で見えない猫。
でも触ってみると、確かに猫の形や毛の手触りがします。

少年は、最近、可愛がっていた猫を、
不慮の事故で亡くしてしまっていたので、猫恋しさもあり、
また怖いよりも、好奇心が先立ったため、
家に持って帰ることにします。

これは、この年頃の男の子特有の性質ですね。
親(特に母親)に黙って家に持ち込み、
なんとかしようと思うのは、特に(^_^;)

物語冒頭の、少年と不思議な猫のやり取りの描写は、
シンプルながら、少年の優しい気持ち、おっかなびっくりな気持ちや
猫のかわいらしさが、とてもよく表れています。

そして、透明猫がどういうものなのか、
見えないとか透明とか言うだけでなく、
描写が観察的具体的で、
とてもわかりやすいんです。


「魚の骨を、光る目玉の下へおいてやった。
すると、かりかりと骨をかむ音がした。
骨がくだけて、机の上からすこしもちあがった。
そしてそれはやがて線のようにつながって、
だんだんと上にあがり、それから横にのびていった。
(中略)
魚の骨が、動物の口へはいってくだかれ、
それから食道をとおって、
胃ぶくろの方へ行くらしい。
それが透いてみえるのだった。」

なんだか透明猫が魚の骨を食べるのを、
一緒になってじっと見ているような、
そんな気分になります。

ところが次の朝、大変な事が起こります。

透明猫と関わった青二くんの体まで、
うすぼんやりと透明になってしまったのです。
理由は全くわかりません。

少年はそれを嘆き悲しんで悩んだ末、
透明猫と一緒に家出を決意します。
お母さんが心配しないよう置き手紙を残して。


女性にはピンとこないかもしれませんが、
この年頃の男の子って、こういう行動をとってしまうんです。
無鉄砲といえば無鉄砲、無計画といえば無計画なんですが。

でも三十越えると、
母親にすぐ打ち明けて、匿(かくま)ってもらおうと考えてしまいます。
この違いは何なんでしょう(^_^;)

少年は家出した先の小さな公園で、
ちょっとヤマっ気のある、
六さんという青年と出会います。

この二十代の青年は、非常に滋味深い言葉で少年を励まします。

「おれだって(戦争から)引揚げて来たときは泣きたくなったさ。
だけど、泣いたってしょうがないと思ってあきらめて、
あとはどんな苦しいことがあっても、
にこにこして暮らしているさ。
楽天主義にかぎるよ。
そして困ったら、三日でも四日でもよく考えるんだ。
考えて、道がひらけないことってないよ。」

彼は戦争の引き揚げ者だったんですね。
身ひとつで戦地から帰ってきて、
荒廃した日本をさまよい、
何度となく途方に暮れたことでしょう。
しかし、多くの若者が、六さんのようなことを思いながら、
頑張ったんでしょうね。

そんな六さんですから、全く物怖じせず、透明猫を見世物にして一儲けしようと持ちかけます。
なかなか商売のやり方が巧みなんです。

これが大当たりし、初日の入場料のあがり高は45万円。

今でもなかなかの大金ですが、
当時のタクシー初乗り80円だったことからすると、
今の貨幣価値で500万円くらいでしょうか。
おそるべし透明猫(^_^;)

ところが次の日、
青二のみならず、六さんや、見世物小屋で透明猫を触った人々までが、
次々と透明になってしまいます。
原因は全くわからず、町は大騒ぎになります。

この物語で、
少年が次第に透明になってゆく時のどうしようもない心細さや、
透明人間が次々と伝染して、
人々がパニックになる不安感みたいなものが、
シンプルな表現ながら、なかなか上手く伝わってくるんです。

そういえば「空気男」の博士が、
奥さんから逃れようとする心理描写も、
シンプルながら、その気持ちがよく伝わってきました(^^;)
なにげにこの作者、そのような描写が上手いですね。

結局、物語は、透明猫を作り出した博士が名乗り出て、
伝染した人々に元に戻る薬を注射することで、
事なきを得ます。

青二くんは、大手を振って家へ戻ることができ、
六さんも心を改め、儲けを山わけにし、
お母さんも、かわいい息子が戻ってきて、大喜びします。

いろいろありましたけど、
少年は、透明猫のおかげで、
いろいろな冒険をし、
いろいろな人々と出会い、
ひと回りたくましくなったのではないかと思います。

これが本当の大団円ではないんですかね(^_^;)

「空気男」「透明猫」、両作品とも透明人間になる発明を扱ったものですが、
主人公の結末は正反対です。

科学技術が人を幸福にする、不幸にするという議論がありますが、
科学技術自体は、中立なニュートラルなポジションにあり、
それ自体で善悪の色づけが、できるものではないように感じます。

その善悪を決定するのは、
つまるところ人間の心の在り方、取扱い方といいますか、
そんなものであるような気がしました。