らんどくなんでもかんでもR

はじめまして。文学や美術、音楽、そして猫のブログをしています。 よかったら、のぞいてみてくださいね。 Nice to meet you. I write about literature, art, music, and cats.

「東漢の班超」桑原隲蔵










中国は数千年にわたる長い歴史を経てきており、
その間に様々な人物を輩出していますが、
今日は班超という人物を紹介します。
この作品は、明治時代の歴史学者である著者が、
班超の功績について述べたものです。

班超は今から約2000年前、後漢の時代の人で、
その一家は文官で、歴史書の執筆に携わる家系でした。

班超は、最初は今で言う公務員の臨時雇いのような地位で、
公文書を写しとる仕事に従事し、母を養っていましたが、
自分の現状を嘆いて曰く、
「男子と生れたからは、せめて外国征伐に従事して、華々しい功績を建て、
一生の中に大名位にならねばならぬ。
筆や硯に埋もれて生涯を果してたまるものか。」
それを聞いた仲間達から嘲笑されたといいます。

この辺りのエピソードは「燕雀安んぞ鴻鵠の志を知らんや」
のエピソードを思わせるものがありますが、
http://kanbunjuku.com/archives/183
しばらくして班超は、西域(今の新疆自治区及び中央アジアの、
いわゆるシルクロードに当たる地域)の遠征に加わる機会を得ます。
この時、班超すでに40歳を過ぎていました。

その頃、中国は国内が安定し、外に向けて拡大していく時期にありましたので、
ちょうどその時代とも合っていたのでしょう。
班超はそこで輝かしい功名を立てます。
彼の名を決定的にしたのは、たった36人の従者で、
百有余人の匈奴の使者を襲いそれを殲滅したエピソードです。
数倍の敵を前に座して死すか、逃げ出すかというその時に、
彼が従者達に放った有名な言葉
「虎穴に入らずんば虎児を得ず。」

思うに班超は、現状を打開する勇というものを存分に持った人だったのでしょう。
しかし彼は蛮勇の人間ではありません。
桑原氏も指摘していますが、むやみに人を殺すなどの威によって圧することなく、
温厚恭謙に接しましたので、西域諸国もよくなつき、
漢に従う西域諸国は50余りにも達しました。
この辺りの温厚さは、文官として続いてきた班家の血筋が現れていたのかもしれません。

そういう能力を併せ持っていなければ、30年にわたり安定して西域を統治するなどは不可能であったはずです。








日本史で、勇の人物といえば、高杉晋作の名が浮かびますが、
彼の勇は多分に直感的本能的で、
その独特の感性ゆえ周りの者には着地点のわからない不安さがあります。
だから高杉に心酔した者しかついてゆけないうらみがある。

しかし、班超の勇は安心してついていける明確さみたいなものがある。
彼の勇は単なるがむしゃらな蛮勇などでなく、
自らの機を待つ忍耐と、事態を冷静に分析する冷たい頭、
それがあってこそ、画竜点睛としての勇が活きているのだと感じます。

途中、本国との連絡が数年間絶たれ孤立無援になるなどの事件も起こりましたが、
難事を見事突破し、西域経営を成し遂げ、
70歳になって都に帰還し、その翌年死にました。
一念発起して西域遠征に加わって30年後のことでした。

なお、班超は西域在任中にローマ帝国の存在を知り、
使者甘英をローマ帝国に送っています。
甘英はペルシャ湾あたりまで到達したものの、
残念ながら、そこから引き返して戻ってきてしまったようですが、
しかしながら、世界は、ここで初めてひとつに
東西文明の存在の認識がつながったと言うべきでしょう。

今から2000年前に、このようなダイナミックな世界的な交流があったということは
驚くより他はありません。


今の不遇を嘆いても、実際に自分をチェンジさせる行動に移せる人間は少ないものです。
ここぞという時に勇を発揮する、
「虎穴に入らずんば虎子を得ず」
彼が発した言葉は、人生における勇の大切さを象徴するものです。

一個人の勇が、世界の認識をひとつにし、互いの交流を促し、
その世界を広く深くしたということが言えるかもしれません。


東漢の班超」桑原隲蔵
http://www.aozora.gr.jp/cards/000372/files/3536_14883.html



皆さん、楼蘭の美女というミイラを覚えていらっしゃいますでしょうか。






自分がまだほんの子供の頃、楼蘭で発見されたものです。
班超はこの楼蘭のあたりで活躍しました。

ミイラの美女が生きていたのは、班超の時代から更に遡ること2000年。
今から4000年くらい前のことになります。

今でこそ砂漠の砂に埋もれてしまっているところですが、
その太古の昔、数千年にわたって、
様々な人間の営みが繰り広げられていたのです。





現在の楼蘭の廃墟の様子