らんどくなんでもかんでもR

はじめまして。文学や美術、音楽、そして猫のブログをしています。 よかったら、のぞいてみてくださいね。 Nice to meet you. I write about literature, art, music, and cats.

【閑話休題】2つの講演会





今年、時期を前後して、図らずして2つの講演会を聞く機会がありました。
この記事の中では、講演者の名前は伏せますが、
ひとつは日本人であれば誰もが知っている有名な寺院の高名な僧侶で、

次期トップに就任することが極めて有力といわれている方、 
もうひとつは東北でリンゴ農家を営んでいて、 
きわめて困難といわれていた栽培法に成功した農家の方。
お年はお二方とも七十代半ば過ぎくらいでしょうか。

プロフィールだけから見ると 高名の僧侶の方の方が、

話慣れして、聞く者のツボをつかんでおり、
ためになり面白いのではないかと思われるかもしれません。
かたや農夫の方は、仕事柄、人前で話をするのに慣れていませんし、
その生きている世界も自分のリンゴ農園がほとんどで、世界も狭い。

しかしながら、この2つの講演会のうち、
自分はりんご農家の方の話に非常に深い感銘を受けました。

菊池寛の小説に「形」という作品があります。
http://www.aozora.gr.jp/cards/000083/card4306.html

得てしてして人というものは、その形に惑わされやすく、
実の無いはずの形が価値を持ってしまうことをテーマとしたものですが、
確かに有名な寺の僧侶が重々しく袈裟をまとってそれらしい話をすれば、
人々は価値のある話をしていると思ってしまうものです。
かたや、この講演のために新調したスーツをぎこちなく着こなし、
方言混じりの所々聞き取りにくく、かつ、時折、大きく脱線してしまう人の話とでは、
おのずから勝負は明らかとも思われるかもしれません。

しかし、二人の話には、その実の重みというものについて、とても大きな差があります。

すなわち、高名の僧侶の話すことは過去の偉大な先人の、いわゆるコピペに過ぎない。
そのひとつひとつに彼の魂が乗っかっていない。
正直にいえば重みがない。

それに比べ、農夫の方の方はゴツゴツしていて、
文章で例えれば、漢字も間違っていて、句読点でデタラメですけれども、
一つ一つ土を見続け、毎日リンゴを見続けた実体験に基づく重みが、その言葉の中にはあります。
ひとつひとつの言葉が意味をもって存在しているのです。

僧侶の方は大変失礼な物言いですが、
今まで市井の人々と一人一人話をし、そのやりとりの中で実を感じ取るということは、
あまり無かったのではないかと正直感じてしまったところがあります。
もしくは講演馴れで、極めてルーティングに陥っている。

言霊とはよく言ったものでして、同じ言葉であっても、
その魂が籠っているものといないものとでは、
同じ言葉であっても、それが発せられた際の力に雲泥の差があるものです。


聖書や論語仏陀の言葉といったものを読んですごいと思うのは、
その教えはひとつひとつ実により裏づけられ、心に刻みつけてきたものであるということです。
エス孔子仏陀も、その人生の中で長き旅をして、実に直に接することにより、
真理を見極めていきました。
それは決して先人の言葉のコピペなどではありませんし、
頭の中だけで観念的に組み立てられたものではありません。

そういったことは、おそろしいほど表に顕れてしまうものであることを、
この2つの講演を通じて、改めて自分も肝に銘じた次第です。










本日、父の三回忌のため、東海道本線普通にて名古屋に帰省中。
写真は三河知立(ちりゅう)の名物大あん巻き 豊橋にて