らんどくなんでもかんでもR

はじめまして。文学や美術、音楽、そして猫のブログをしています。 よかったら、のぞいてみてくださいね。 Nice to meet you. I write about literature, art, music, and cats.

【テレビ番組】大河ドラマ 花燃ゆ8



 
 
第25話「風になる友」


幕末の池田屋事件といいますと、映画「蒲田行進曲」の昔から(笑)、
新撰組をメインとしたストーリーとして、よく知られています。

曰く、尊皇攘夷の不逞浪士が京の都に火を放ち、
そのどさくさに紛れて、幕閣の主要な人物を暗殺し、
天皇を拉致するというだいそれた計画を未然に防ぎ、
都の平穏を守った新撰組の活躍というような流れになっています。
非常に大まかではありますけれども。

しかし、先日の「花燃ゆ」は、長州の側からみた、
全く逆の立場からの池田屋事件のストーリーであり、
なかなか貴重だったのではないでしょうか。

池田屋事件というのは、
新撰組が世間に名を馳せたきっかけとなったものとして有名ですが、
副長土方歳三などは、それをよく認識していて、
他藩に手柄を取られないように手出しをさせず、 
あくまでも新撰組が、この事件をメインで解決したということを強くアピールしています。

すなわち、この事件を新撰組の飛躍に最大限利用しうると、
土方の頭の中で覚った瞬間、
池田屋事件のストーリーが、彼の頭の中で出来上がっていったのではないかと感じるところがあります。

例えば、京に放火し、重要人物の暗殺拉致云々の話は、
拷問の末自白したという以外は証拠も無く、
拷問の場に居た新選組以外の者に認知されたものでもありません。
かような大それた大規模な計画を意図していたのであれば、
人員の配置や武器弾薬の確保、天皇を長州まで拉致する手はずなど、
様々な綿密な計画が必要となるはずですが、 
長州側において、池田屋の参加者により、そのような計画を意図していた資料は全く存在せず、
また、池田屋でも押収されていませんし、
実際は、現在捕らえられている同志を、
どのように救出するかという程度の話に止まっています。

池田屋での企てが大きければ大きいほど、
それを未然に鎮圧した新撰組の名声も大きくなるものであり、
そこに土方歳三のシナリオも見え隠れするような気がします。
 
あくまでこれは自分の個人的意見ではありますけれども。


しかしながら、この時、命を落とした数十人の志士たち、
生きていれば、明治の世において多大なる貢献をしたであろうと言われています。
長州の吉田稔麿なども生きておれば、 
確実に明治政府の有力な人物になったであろうといわれておりますし、
運良く難を逃れた志士の中には、
後にシャープの創業の礎となる研究所を創設した人物や、
作家有吉佐和子氏の曾祖父なども含まれております。


なお、この時、武士ではない池田屋の主人も捕らえられ、
新撰組から激しい拷問を受け続けましたが、
遂に口を割ることなく、1ヶ月後に拷問死しています。

いわゆる新撰組というのは、会津藩お抱えの秘密警察のようなもので、
そのような暗部の汚ない仕事を一手に任されていた部分もあり、
武士に憧れ、武士たろうとした純朴な青年たちの物語とするには、
自分的にはやや躊躇する、苛烈で陰惨な一面があるのは確かです。


では、どちらが正しくてどちらが間違っていたのかということについてですが、
ドラマにもありましたが、
長州の吉田松陰が常々心に刻んでいた言葉は至誠であり、
かたや、新撰組が標榜していたのも、はからずも同じ誠でした。

つまり、どちらが善悪というよりは、
それは、誠対誠というように対等な価値観のようなものがぶつかり合うものであり、
どちらが正しく、どちらが間違っているという視点で考えるのは必ずしも正しくなく、
新撰組の面々が長州に生まれていれば、尊王攘夷の志士になったかもしれませんし、
長州の志士が武蔵の農民に生まれていれば、新撰組になっていたかもしれないと感じます。

すなわち、それぞれが自分の生まれた限られた環境の中で、
思い描くことができたものを達成するため、全力を尽くして闘った。
ただ、時代の流れは遡ることなく、新しい世を造ろうとした長州に味方した。
 
自分の中ではそのように位置づけています。




以前、同趣旨の記事を書いたことがあります。
よかったらご覧になってみてください。
参照記事:【テレビ番組】大河ドラマ「八重の桜」坂本龍馬登場の回