らんどくなんでもかんでもR

はじめまして。文学や美術、音楽、そして猫のブログをしています。 よかったら、のぞいてみてくださいね。 Nice to meet you. I write about literature, art, music, and cats.

【人物列伝】23 中島三郎助

 

この間、大河ドラマ「八重の桜」の話をちょっとだけしました。
八重の故郷会津は、戊辰戦争最大の激戦地でしたが、
会津若松城落城後もその残党は北へ北へと逃れ、抵抗を試みます。
そして最後に立てこもって抵抗を試みたのが、蝦夷地の函館。
当時としては北の最果ての地だったことでしょう。

自分も函館を旅行し、戊辰戦争最後の激戦地の史跡を巡ったことがあります。
榎本武揚らが立てこもった五稜郭
新撰組土方歳三が戦死したのはこのあたりだろうか、
などと思いを馳せながら、
函館の町をあちこち見て回ったものです。

その道すがら、車が行き交う何の変哲もない主要道路の植え込みに、
「中島三郎助父子最後之地」と記された碑がふと目に入りました。



それは古びた、木を白くペンキ塗りした、朽ちかけた風の碑でしたが、
その時、自分は、この中島三郎助なる人物のことを全く知りませんでした。

今回は、この人物のことをお話しようと思います。

中島三郎助は、今の神奈川県の浦賀の与力の子として生まれました。
今でいえば地元採用の中間管理職といったところです。
喘息もちで体は弱かったのですが、
勤勉で大変な努力家であったといいます。

そのまま天下泰平の世が続いていれば、
彼も浦賀の与力として平穏に一生を全うしたことでしょう。

しかし、三郎助の運命を大きく変える出来事が起こります。
浦賀にペリー来航。

日本中が黒船に右往左往する中で、
三郎助は地元の与力として折衝します。
運命の奇遇から、三郎助は日本人で初めて黒船に乗船し、
ファーストコンタクトした人間となったのです。

几帳面で責任感が強く、好奇心旺盛な三郎助は、
他の人間が黒船の威容にただただ圧倒される中、
つぶさに黒船を調べ、記録します。
もともと江戸湾の玄関口浦賀の役人として
調査の必要性や自身砲術の心得もあったのでしょう。
米国側の記録には、その行動はずうずうしく厚かましく、
しつこく詮索好きであったとの記載があります。

ペリーが去った後、三郎助は黒船の調査記録をもとに、
幕府に、軍艦の建造と蒸気船を含む艦隊の設置の意見書を建白。
そして日本初の洋式軍艦の製造の中心となり、
完成後はその副艦長に任命されました。

そんな最先端技術を習得した三郎助のところには、
その技術を学びたいと日本各地から
時代の変化を感じ取った俊英達が訪ねてきました。
後に明治の元勲となる長州の木戸孝允も三郎助の元を訪れ、
三郎助は、1カ月半近く彼を自宅に泊め、
熱心に造船学を教えたといいます。

また水戸藩の軍艦建造にかかわった三郎助は、
その礼として目立った産業のなかった浦賀のために、
水戸藩の塩の専売権を譲り受け、
そこから得られた利益は、浦賀の発展に大いに貢献したといわれます。
一方、自身は、お上より充分禄をいただいているのでと丁重に断り
決して礼を受け取ることはありませんでした。

三郎助を師と仰ぐ木戸孝允は言います。
「先生は実に清廉潔白な人だった。
先生のかたわらにいると、
心潔く身の清らかになる思いがした。」


しかし、十数年で時代は目まぐるしく変化し、風雲急を告げ、
遂に大政が奉還され江戸幕府消滅。ついで戊辰戦争勃発。
三郎助は幕府方として戦うことを決意。
榎本武揚らと合流し、函館に向かいます。

しかし、いかんせん、時代の流れは、三郎助の幕府側には傾くことはありませんでした。
日に日に敗色濃厚となっていく戦況。

そんな時、三郎助は浦賀に残した妻に宛て
こんな手紙を送っています。
「皆々別状これなく候、ご安心下さるべく候、
我らも来春は早々帰国いたし、いろいろお話し申したく候。」

そして、そのすぐ後に、
三郎助は知人にこんな手紙を送っていました。
「いよいよ討死と覚悟いたし候、
ついては留守宅婦女子共、この上何分ご温情願い奉り候。」


三郎助、辞世の俳句


郭公(ほととぎす)
我も血を吐く
思ひかな


われもまた
死土で呼ばれん
白牡丹


中島三郎助、五稜郭の戦いにて、2人の息子と共に明治2年5月戦死。
享年49歳。

その2日後に五稜郭は陥落。
名実ともに明治の新しい世が幕開けたのでした。

三郎助が戦死した後、
浦賀には妻と3人の娘たち、幼い息子与曾八が残されました。

一家の主を失った家族を助けたのは、
他ならぬ地元浦賀の人々でした。
そして生前三郎助と深い交流のあった木戸孝允榎本武揚らも援助を惜しみませんでした。

当時、幼子だった与曾八は、長じて海軍中将となり、
エンジンの開発設計の技術者として活躍しました。
それは、造船のパイオニアだった父三郎助の遺志を受け継いだことになるといえます。

三郎助をよく知る人が、後年回顧して彼を評してこのように述べています。

「中島という人はまことに強い人でありましたが、
始終冗談ばかり言って人を笑わせる人でありました。」


思うに。
前回、自分は長州の志士達は未来に殉じ、会津の人々は過去に殉じたと言いました。
今回紹介した中島三郎助も過去に殉じた人といえるでしょう。

しかし三郎助は会津の人々や新撰組と異なり、
新政府側とも深い関わりがあった人で、
いわばどちらの立場も選択することできた位置にありました。

また彼は当時一流の技術者で、最先端の情報にも接しており、
客観的に物事を推し量ることもでき、
先の世を見通すこともできたはずです。

それなのに、なぜあえて滅び逝く幕府側に組したのか。

なるべく損のないよう臨機応変に立ち振る舞うことを旨とする
現代の風潮からすると、
三郎助の態度は頑迷で融通の効かないもののようにも感じます。

実は、三郎助が函館に旅立つ前、決意文のようなものをしたためています。
それには、中島家代々の家系図が記され、
かように200年間にも及び大恩を受けた幕府に
いわれ無き冤罪がかぶせられている。
今こそ、その大恩に報いなければならない。
とあります。

200年間代々受けてきた大恩などというものは、
まさしく封建的なもので新しい世には取るに足らないものだ、
と言うことは簡単なことなのでしょう。
しかし、それでは逆に、今まで寄っていたものが役に立たず時代遅れとわかった瞬間、
さっさとそれを捨て去り、躊躇なく乗り換えてしまう…
そんな人達が作る新しい世の中が魅力的かといえば、
そうでもないような気がします。

筋を通すということは、ある意味、強くなければできるものではありません。
これまでの世の中は決して無意味ではなく、最後までその価値を守ろうとした人々がいた。
ということを後の世の人に知らしめ、その基台の上に新しい世の中を築き上げていく。

三郎助は、新しい世を担う側の者として木戸孝允などを知っていましたし、
彼ならば…と思っていたところもあったのでしょう。

筋を通す者と新しい世を切り開いてゆく者。

最初、二つは相重なるように存在し、
新しいものを見極めると、
古い葉が新しい葉に後を託すようにひらひらと地に落ちてゆくように
その役割を静かに終える。

中島三郎助の人生はそのようなものに思えて仕方ありません。

最後まで筋を通して貫いて、新しい世を見極めて散っていった最後の侍。
その輝きは、巷で有名な幕末の志士達に勝るとも劣らないものに
自分には思えます。