らんどくなんでもかんでもR

はじめまして。文学や美術、音楽、そして猫のブログをしています。 よかったら、のぞいてみてくださいね。 Nice to meet you. I write about literature, art, music, and cats.

【絵画】「バラの中の死したヴァランティーヌ・ゴデ=ダレル」前編 ホドラー

 
 
 

ちょっと時間が経ってしまった話ですが、
昨年参りましたチューリッヒ美術館展で、次のような作品がありました。




「真実、第二ヴァージョン」


この作品の作者は、フェルディナント・ホドラー
なんでも、スイスが誇る国民画家だそうです。

画面中央に両手を広げ、堂々と立つ女性は「真実」の象徴。
「悪」を表す周囲の男性たちは左右対称に配され、顔を背けて配置されているとのことです。
ホドラーは本作のように、類型的なポーズを繰り返し描くことで、
秩序や統一性を生み出す「パラレリズム(平行主義)」を提唱し、
多くの作品で、それを実践している。 とのことです。

確かに、そう説明されれば、あー、なるほどと思うのですが、
説明されなければ、ちょっと不思議な世界の絵というか、
モダンの舞台の舞踊か何かを描いたものかしらと思ってしまいます。

パラレリズムを代表する作品としては、次のようなものもあります。



 
女性が四人ほぼ等間隔で描かれており、
確かに一定の秩序や統一性が垣間見えるといえば、見えるのですが、
先の絵もそうですが、
自分は秩序や統一性、そこから醸し出されるリズムというポジティブなものよりも、
描かれている人間の感情の起伏というものをあまり感じ取れない、
ぽつんぽつんとそれぞれが無機質な感じで、孤独に存在している。
そういう印象が先立ってしまうのです。

パラレリズムを賞賛する方々は、
しきりにその技法の革新性と表現の斬新さを主張されるのですが、
自分はそれらの作品を何度見返しても、
パラレリズムに対するシンパシーといいますか、
ビビビと電気が走るような共鳴を感じないのです。

ホドラーの風景画。
彼は故郷スイスの風景をこよなく愛し、いくつもの作品を描いています。
 
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確かに静寂な山の朝や夕暮れの風景といえば、確かにそうですが、
これらにおいても、やはり、ひっそりとした寂しさ、孤独というようなものを先ず感じてしまう。

それはひょっとしたら、画家の生い立ちが大きく影響しているのかもしれません。

フェルディナント・ホドラーは、父母や兄弟全てを結核などの病気で相次いで失い、
10代前半で天涯孤独の身となりました。
貧困を極めていた幼少のホドラー自身が、兄弟や母親の死体を荷車で運んだと、
彼の回想にあるそうです。
その後、 看板職人や観光客相手に絵を売って生計をたてていましたが、
画家の徒弟となり、本格的に絵画にいそしむようになったのが、20歳前後のこと。
そして、世になんとか名前が出るようになったのが40歳。
画家として独り立ちできるようになったのが、50歳を迎える頃という、
いわば遅咲きの苦労人というところです。

苦労続きで、家庭的なものにも恵まれなかったホドラーですが、
50歳を過ぎて、20歳年の離れた最愛の女性と巡り会います。
 



「ヴァランティーヌ・ゴデ=ダレルの肖像」(パリジェンヌII)

男性ならわかるかと思いますが、
女性の振り向きざまのニッコリと微笑んでいる肖像というのは、
その女性のことを本当にいとおしく、かわいらしく思っている表れなんです。
ピンク色がかった白い肌に、つぶらな茶色の瞳でかわいらしく微笑みかける最愛の人。
彼の作品の中で、珍しく、人間らしい血の通った、生気に満ちた人の表情を見たような気がします。
心から人を愛することで、ホドラーの絵の中の肖像は真の命を得たのだと、
自分は感じます。

ホドラーにとって、この時が人生で一番幸せだった時期だったのかもしれません。

しかし、その幸せは長くは続きませんでした。
最愛の女性はほどなく癌を発病し、つらい闘病生活を強いられます。
神はホドラーに幸せな家庭生活というものをついぞ与えることはなかったのです。




 
さきほどの肖像とはうってかわって、女性の顔は黄土色で痩せ細り、
目はうつろで視点は定まらず、ぼんやりと遠くを見つめています。
絵を眺めておりますと、描いているホドラーのやり場のない、やるせない悲しみ、
ただひたすら絵を描くことしかできない、せつせつとした思いが伝わってくるようです。
ただひたすら彼女を見つめるしかない画家の姿が感じられます。
ただひたすらにじっと。

そして、数年の闘病生活の果て、彼女に最期の時が訪れます。
 




「死に近きヴァラティーヌ・ゴデ=ダレル 」


 
後編につづきます。