らんどくなんでもかんでもR

はじめまして。文学や美術、音楽、そして猫のブログをしています。 よかったら、のぞいてみてくださいね。 Nice to meet you. I write about literature, art, music, and cats.

【人物列伝】30 久野久(くのひさ) 後編

 

後編です。

実は久野久のヨーロッパ行きは、必ずしも手放しで喜ぶことができるものでなく、
色々と問題もあったのですが、
とにもかくにも彼女にとってクラシック音楽の本場の空気に触れられるということは、
心ときめく素晴らしい出来事であったと思います。
彼女は渡航先から、知人への手紙でこのようなことを述べています。

「私はもうかれこれ数十回も聴いたでせうね。
その季節になると殆ど毎日二つ三つも演奏会がありますので
どれへ行こうかと迷う位です。
しかし私はぜひ聴かねばらぬと思ふ大音楽会の外は
やはり専門のピアノのよささうなのをのみ撰んで参りました。
(中略)一体、私は各演奏会を非常に忠実な研究的な聴き方を致しました。
即ち私がききに行くべき演奏会のプログラムがその前週に発表せられると、
直ぐその楽譜を見て買ひ求めて自身で前日までに弾奏し、
知つてゐる曲は勿論、知らない曲だと
尚ほ更覚束ながらも幾度も繰返して弾いて見ます。
そしてさてその当日になりますと必ず楽譜と鉛筆とを携へて会場に臨み、
各演奏者の態度、弾き方、音響、ペタルの使ひ方、なんどを仔細に観聴して
注意すべき点だの批評なりを一々書き入れたりしました。
だから一演奏会毎に頭と耳と眼と手とを一時に働かせねばなりませんので、
随分に疲れました。」

忙しくも充実した毎日を送っている
嬉々とした彼女の表情が見て取れるようです。

大作曲家リストの高弟であるエミール・フォン・ザウアーの元を訪れ、
その前でベートーベン「月光」を弾いたのもその最中のことでした。
この時、ザウアーが
「日本人でこれほどまでにベートーベンを弾ける人間がいようとは思いもしなかった。」
と言ってレッスンを申し出たことは、
たとえその言葉に社交辞令的な意味合いが含まれていたとしても、
久にとってどれほどの喜びであったか想像に難くありません。


しかし、それからしばらく経った或る春の晴れた日、
彼女はウィーンのアパートの窓から身を投げ自ら命を絶ちました。
大正14年4月20日のことでした。
享年38歳。

遺書はなく、俗説では、後日ザウアーの元を訪れた際、
ピアノの奏法をもう一度やり直した方がよいと指摘され、
決して若いとはいえない久は、やり直す時間がないと絶望したとも言われますし、
一説には交通事故により頭部を強打した際、
精神不安定となり、その症状が悪化したからとも言われています。
またこの洋行は実は自費によるもので
旅費が尽き、進退窮まったためとも言われています。


自分が考えるに、
今まで、彼女は音楽とつながっている実感、確信がある限り、
いかなる困難も乗り越えて来られたと思うんです。
それほど人生の喜びも悲しみも、
その全てを彼女は音楽に注ぎ込んできたわけです。

ですから彼女が自ら命を絶ったのは、
その音楽と断ち切られた、もしくは断ち切られたと思った何かがあった。
抽象的かもしれませんが、これ以外理由が思い当たらないのです。

どうして自殺したのか誰も具体的な真相がわからないというのは、
ある意味、彼女の、寄り添える者のない孤独な人生を象徴しているようにも思います。

それでは彼女の家族は何をしていたの?と思われるかもしれません。
彼女が本来最も頼りにするべき実兄は、彼女のマネジメントと称して自らの仕事をやめ、
生活の全てを障害者の彼女の稼ぎに頼る日々を送っており、
言わずもがなのところがありました。

しかし、いずれにせよ、確かに言えることは、
彼女は、ずっと心も体もめいっぱいで満身創痍であったということ。
ずっとクラシック音楽の先駆けとして道なき道を歩んできた人生。
現代の我々からみると、無駄にエネルギーを費やしたこと、間違ったことも、
随分してしまっていたのかもしれません。
しかしそれは、道が既に整備されているからこそすまし顔で言えるのであって、
彼女は先駆けとして、道なき道を分け入って傷だらけで独り進んでいたのです。
そして遂に力尽き、道半ばにして倒れてしまった。

ある意味、コップの水が表面張力でかろうじてこぼれていなかった状態が、
ほんのささいな偶然の一滴で、
ドボドボとあふれてしまったともいえるかもしれません。


では彼女のやってきたことは全くナンセンスだったのでしょうか。
彼女は光ある頂上をついぞ見いだすことは、できなかったのでしょうか。

暗闇の中をほとんど手探りで、自分の進むべき道を迷い迷いながら進み続けた人生。
充分とはいえない音楽教育に楽譜だけを頼りに、
そんな手探りの中、ベートーベンの素晴らしさと出会い、それをひたすらに追い求めた人生。
自分は、がむしゃらに、そしてひたすらに音楽に食らいついているうちに、
彼女は頂上の光ある方向を直観的に感じ、
おぼろげながらも確かに、その光を感じる方向に歩んでいたのだと感じています。

なぜ自分がそのようなことを感じているかといいますと、
それは彼女の演奏にあります。

これまで彼女の演奏は、ごく僅かな愛好家にそのレコードが所蔵されているだけで、
世間一般に聴かれることはまずありませんでした。
しかし、近年そのレコードが復刻され、ようやく一般的にも聴くことができるようになりました。
彼女が録音したレコードは、渡欧直前に吹き込んだベートーベンの「月光」1曲のみ。

そのごく一部ですが、今回皆さんにも、ぜひ聴いていただきたく思います。

彼女の演奏は、当時全盛だったテンポの大きな揺れはむしろ抑制されており、
楽譜に忠実に弾こうとして努めているようにさえ感じられます。
よく彼女の演奏は鍵盤をぶっ叩くということが言われますが、
そういう演奏に有りがちな音のうるささというものを全く感じさせません。
その音のひとつひとつの集中力と直観力、
ひとつひとつの音に込めら秘められた彼女の凝縮した思いが、
聴く者の心の心奥に当たり、いつまでも反響している。
自分にとって彼女の演奏は、そんな演奏です。

古びたレコードの音から、彼女が唯一残した音にじつと耳を傾けていただけたらと思います。

35分45秒あたりからご覧になってみてください。
https://www.youtube.com/watch?v=_260j_B_Vxk


なお、記事に添付した番組は、かつて久野久について放送されたドキュメンタリーです。
そのシナリオは中村紘子ピアニストという蛮族がいる」という本に寄っています。
しかし、この本は中村紘子氏の冷笑的な上から目線が非常に気になるところがあり、
そこで述べられている事実についても、
いわゆる久野久に対する俗説、彼女をモデルにした創作小説などをそのまま鵜呑みにして、
それを基に彼女を評価した内容となっています。
この番組も、それにのっとっており、見ていて正直気になる部分もあります。
しかし客観的事実にも留意した内容となっており、
久野久についてのほぼ唯一のドキュメンタリーでもありますので、
興味のある方はご覧になってみてください。


演奏家にとって最も哀しいことは、自分の音が忘れ去られてしまうことです。
逆にいえば、悲劇の死を遂げた久野久にとって
最もその魂の慰めとなることは、
彼女が人生をかけて紡ぎ出した音楽にじつと耳を傾け、
自分自身の心で聴き入ることではないかと思っています。