らんどくなんでもかんでもR

はじめまして。文学や美術、音楽、そして猫のブログをしています。 よかったら、のぞいてみてくださいね。 Nice to meet you. I write about literature, art, music, and cats.

【クラシック音楽】宇野功芳氏を偲ぶ





先日、クラッシック音楽評論家宇野功芳氏が亡くなりました。 
彼は自分のクラシック音楽の嗜好を形成するのに、
少なからぬ影響を与えた人物で、今回は彼の話をしようと思います。

宇野氏がその演奏の良し悪しを決めるのに、唯一指標としているのが、自らの直観。
その評論は、音そのものを聴いた直観により得られた印象によって綴られています。

ですから、いくら著名な演奏家でも、
自らの心に音が入っていかないものは良い演奏ではないし、
無名の演奏家でも心に入ってゆくものはある。

そんなの当たり前じゃないかと思うかもしれませんが、
音楽評論の世界というのは、実はそうではないのです。
レーベルやら出版社やら、あちこちに配慮した表現をしているうちに、
なんとなく当たり障りのない評論になってしまう。
そして、大手レーベルの著名な演奏家の新盤には、

必ずと言っていいほど推薦マークがついてしまう。

それに比べて、宇野氏の歯に衣着せぬ直截的な評論は刺激的でした。
俺はこう感じる。という強い意志のようなものが、
読むとビシビシ伝わってきたものです。



曰く、

ある音楽雑誌の読者のページでメータ(世界的に著名な指揮者)に失望という記事を読んだ。
メータが、ブルックナーを指揮するというので出かけたら、
いかにも表面的で皮相な演奏でがっかりしたというのだ。
僕に言わせれば、たった一言で終わりである。
「メータのブルックナーなど聴きに行く方が悪い。」
知らなかった、とは言ってほしくない。
ブルックナーを愛する者は、そのくらいは知らなくては駄目だ。



曰く、

フルトヴェングラーに比べると、現代の指揮者の演奏はなんとむなしいことか。
カラヤンはその最たるもので、まるでスポーツカーに乗って
ハイスピードで飛ばすような「運命」であり、
スマートでカッコイイかもしれないが、ベートーベンからはあまりにも遠い。



好きなものは徹底的に好き。嫌いなものは嫌い。
彼独特の辛辣な表現口調もあって、
熱狂的なシンパがいるも、アンチの数はそれ以上に多い評論家でした。

彼の評論は主観的で情緒的と批判されることがあります。
しかし、考えてみれば、客観的な感動というのはあるのでしょうか。
感動とは常に主観的なものであり、
自分が感動しなければ、他の人がみな感動すると言っても、
それは感動するものではないし、
逆に他の人が感動しないものでも、自分が感動すれば、
それは感動するものであるはずです。


芸術の感想で客観的な感動は有り得ない。
存在するのは、主観的な感動だけであって、
それに他者が共鳴しうるか、しないかだけであると自分も思います。


宇野氏がイチ押ししていた、当時知る人ぞ知る演奏家であった
朝比奈隆、クナッパーッブッシュ、シューリヒト、ムラヴィンスキーらの面々。

この中でも朝比奈隆氏は、本場のウィーンフィルベルリンフィルの名指揮者たちにも勝るとも劣らぬ

巨匠風の指揮をする人で、
こんな人が現役で日本にいたのかとびっくりしたものです。






ここではベートーベン交響曲第3番エロイカの演奏を挙げておきます。

https://www.youtube.com/watch?v=h9NGAXOj12Y



また、ピアニストのブーニンについて、
当時史上最年少でショパンコンクール優勝ということで、
世間では彼のショパンばかりが取り上げられていましたが、
宇野氏曰く、ブーニンショパンよりもハイドンに聴くべきものがある。

こちらがブーニンによるハイドン ピアノソナタ23番の演奏。
https://youtu.be/XzdnfvXwPgs

なんてチャーミングで遊び心ある愉悦的な演奏でしょうか。
それは自分がブーニンハイドンの両方に一度に目覚めた瞬間でした。



また近年では、宇野氏は佐村河内守交響曲第1番「HIROSHIMA」発売の際、その評論もしております。

そこで曰く
「哀れで聴くことが出来ない」

この発言は日本中が熱狂的な佐村河内守ブームの真っ只中だった時のものでしたので、
かなり物議を醸したようですが、
宇野氏は後にこのようにも語っています。



今年に入ってから、佐村河内守の話題で持ちきりだ。
彼は天性の詐欺師だと思うが、だまされた、だまされたと騒ぎすぎるのも気になる。
実害を受けたヴァイオリンを弾く少女や、佐村河内に恫喝されたという少女の両親は別として、
大ベストセラーになった彼のCDを買った人がそれを言うのは筋違いだろう。
今回の問題で、ぼくが最も腹立たしいのはそのことである。
大体、日本人は(他の国の人も同じかも知れないが)、
全盲とか全聾とかいうとすぐに大さわぎをし、マスコミが飛びつき、
演奏家ならばコンサートは満員、作曲家ならCDが大ベストセラー。
日本のベートーヴェンなどとほめ立てる。
ベートーヴェンは耳が聴こえなかったからすばらしいのではない。
作品自体が凄いからすばらしいのだ。
みな感動するのだ。

レコード芸術の月評に「交響曲第1番」がまわって来たときには、その自問自答の音楽に疲れ果て、
原稿を書いたときは、

200字詰原稿用紙の真ん中の部分が白くかすみ、字が見えなくなってしまった。
しかし、ほとんどの人はこの曲に感動しているのだ。
独創的ではないが、なかなかの力作であることは確かである。
ぼくには拒否反応が強く出たが、駄作では決してない。
ところが、新垣という別人の作だと分かったとたん、今度はだまされたと怒り出す。
それではあの感動はウソだったのか。




宇野功芳氏、6月10日、老衰で死去。
享年86歳。

自分の好きなことをやり尽くし、言いたいことを言い尽くして、
エネルギーを全て使い尽くした人生。
とても羨ましく思います。