らんどくなんでもかんでもR

はじめまして。文学や美術、音楽、そして猫のブログをしています。 よかったら、のぞいてみてくださいね。 Nice to meet you. I write about literature, art, music, and cats.

【人物列伝】28 円谷幸吉 後編

 

円谷選手の死に衝撃を受けた、もうひとりの人物とは。
その人とは、高橋尚子選手を育てた小出監督です。

彼は円谷選手の1歳年上で、現役時代には、駅伝の合宿所で同部屋になったこともあり、
少なからぬ交流があったそうです。
円谷選手は非常に温厚かつ気さくな人で、
パチンコの景品のチョコレートをみんなに配ったりしたエピソードなどを語っています。
当時小出監督は無名の、地方の中堅選手に過ぎませんでしたが、
練習方法などについても熱心に意見交換したことがあり、
きわめて冷静で、真面目で真っ直ぐな印象を持ったとのことです。

そんな交流があった小出監督にとって、
円谷選手の自殺は、かなりショックな出来事であったことは容易に想像ができます。


自分は、その後現役を引退し、指導者となった小出監督の指導の中に、
円谷選手の死を無駄にしないエッセンスが含まれているような気がしてなりません。

愛弟子の高橋尚子選手は、走ることは楽しい、走ることを楽しむ。
というようなことをよく言います。

ラソンは非常にストイックな競技だという従来の考え方からすれば、
思わず、えっ?と思ってしまう部分もあります。

しかし、彼女の中には、まず走ることを楽しむことありきで、
それ自体が目的となっている。

前の記事で、人間とは心に寄り添うものを得ることで、
心の糧を受け、生き続けてゆけるものではないかと述べました。

高橋選手の場合、走ること自体が彼女の喜び、楽しみであるため、
走ることは、そのまま彼女の心に寄り添うものとなり、
心の糧を与えるものとなっていきます。

彼女は走り続けることで捨てなければならない物は何もない。
走ることで、すり減ってゆくものが何もない。
それどころか、却って、彼女に降りかかる孤独と苦悩に、
走ることが、彼女に寄り添い、慰め、力を与えてくれる。

楽しく走るなんて素人じゃあるまいし…
言葉で主張するだけなら、専門家達はそう言ったかもしれません。
しかし小出監督高橋尚子選手の師弟は、
オリンピックの金メダルというこれ以上ない実績で、日本中にそれを示した。
これは本当に素晴らしいことです。

http://www.youtube.com/watch?v=tp-tRFdeIhw
こちらの画像はシドニーオリンピック女子マラソンの様子です。
彼女は後ろから後続選手が急追してきても、更にそれを引き離す力がある。
彼女の走りは、決して心をすり減らすことで
生み出されたものでない余裕を感じます。


しかし、楽しく走る、とはいうものの、
人間というのは、誰しも自尊心や名誉欲、他人に勝ちたいと思う心、
他人の期待に応えようとする心、失敗したらどうしようと思う心などがすぐ頭をもたげてきて、
純粋に走ることを楽しむということは、実は、なかなか難しいことです。
特にオリンピックで走るレベルの選手ならなおさらです。
それがプレッシャーの根本であるわけですけれども。

しかし、長い間、高橋選手の言動をじっと伺っていますと、
彼女は言葉としての建て前としてだけではなく、
実際にそれを実践しているように感じます。

金メダルを取ったシドニーオリンピックの次のアテネオリンピック
過去の実績や期待値といったものからすれば、
オリンピックに出場してもおかしくない高橋選手でしたが、
残念ながら代表から漏れてしまいました。

走ること自体が楽しいとはいっても、内心は、かなりガッカリしたに違いありません。
当たり前です。
オリンピックの舞台で走ることはランナーにとって最高の喜びであるのは間違いないんですから。

しかし、彼女は、その後も走ることを止めようとしませんでした。
日本各地の市民マラソンなどを走ることで、
一般の人々に走ることの楽しさを教えるとともに、
反面、彼女自身、走ることで慰められ、力づけられた部分もあったでしょう。

そのうち彼女に走る楽しさを教えられた日本中の人々が、
走ることを喜び、楽しむようになり、
高橋選手が走れば走るほど、彼女と共に走ろうとする人々が増え、
その楽しさ、喜びを分かち合うことが大きくなっていった。
彼女は走り続けることで、何かを失うどころか、
寄り添うものがどんどん増えてゆくようになっていった。

そして高橋選手に走る楽しさを教えられた人々が、
それをまた次の人々に教えることにより、
走ることを楽しむ人々はますます広がってゆく。

そのことは、文字通り走ることに命を賭けた円谷選手にとって、
この上ない魂の慰めとなるに違いないと自分は感じます。文豪のどんな絶賛よりもです。


時は巡り、56年の月日を経て、
2020年、また東京にオリンピックがやって来ます。

そしてあの時と同じ国立競技場に、
ラソンの選手達がゴール目指して帰ってくることになります。
スタジアムの大歓声の中を、選手がトラックに入ってくる時、
自分は、どうしても円谷選手がトラックに入ってきた先の東京オリンピックの映像が、
二重写しになって蘇ることになるだろうと思います。
しかし、その二重写しになるもうひとつの映像が、
走る楽しさ、喜びを見出した新しい世代の代表選手が、
駆け抜けてくるものであることを願ってやみません。

 
 
 


画像は東京オリンピックに向けて、苦楽を共にして練習した
円谷選手が最も信頼していた人々
(左から)畠野洋夫(コーチ)、円谷幸吉、南三男、宮路道雄両先輩
東京オリンピック後、彼らは離れ離れになり、再び集うことはありませんでした。