らんどくなんでもかんでもR

はじめまして。文学や美術、音楽、そして猫のブログをしています。 よかったら、のぞいてみてくださいね。 Nice to meet you. I write about literature, art, music, and cats.

【人物列伝】28 円谷幸吉 前編

 


巷ではよく、秋は、スポーツの秋ということを言います。
その言葉の由来は、どこから来ているかというと、
どうも東京オリンピックが10月10日に開幕し、
その日が体育の日の祝日と定められて以来、
この時季に、体育行事が数多く行われるようになったことに由来するようです。

今日は、過ぎ行く秋を惜しみつつ、
スポーツの秋の由来となった東京オリンピックに出場した、
或る選手のお話をしようと思います。


1964年10月21日、華やかに幕を開けた東京オリンピックも最終日を迎え、
オリンピック最後の華である男子マラソンが行われていました。

圧倒的な強さで、真っ先にゴールの国立競技場に現れたのは、エチオピアアベベ
先のローマ五輪では「裸足のアベベ」の異名をとり、
この東京オリンピックでも、2位以下を大きく引き離し、
オリンピックマラソン前人未到の連覇を果たしました。

そしてしばらくして2番目のランナーが競技場に現れました。
彼の名は円谷幸吉
日本代表第三の男といわれ、マラソン経験も浅く、
世間がもっとも期待していなかった代表選手でした。

トラックに入ってきた円谷は、もう疲労困憊の極みで、
気力を振り絞って、ただひたすらゴールだけを目指しているように見えます。
そこに後ろから、イギリスのヒートリーの猛追。
6万人の観衆で埋め尽くされた国立競技場は大歓声に包まれます。
ゴール直前で抜き去ろうとするヒートリーに気付き、
チラッと目をやる円谷選手。
しかし彼には、もはや競り合う力は残されていませんでした。

しかし、それでも堂々の銅メダル。
東京オリンピックで日本が陸上競技で得た唯一のメダル。
日本が国を挙げて盛り上げた東京オリンピックに、
見事に最後の華を添えたのです。


その日から福島(須賀川)出身の自衛官の青年は、
日本中のスターになりました。

講演会や地方などで開催される陸上競技大会などに引っ張りだこの毎日。
彼は東京オリンピックの時には23歳と若く、
次の4年後のメキシコオリンピックでは、
アスリートの能力的にもピークを迎え、
金メダルも、と、当然に期待される立場にありました。

しかし、円谷選手の体は、この時すでに、
もはや溌剌とした若いアスリートのものではありませんでした。
もともとの持病である椎間板ヘルニアの悪化により、
ひどい時には起き上がることができない時もあり、
加えて、アキレス腱の断続的な痛みによるたびたびの故障。
責任感の強い真面目な性格が却って災いとなり、
オーバーワークからくる故障の悪化。
故障が原因による度重なる棄権。
必死に走ろうとすればするほど、頑張ろうとすればするほど、
どんどん遠ざかってゆくオリンピックへの道。

そして、メキシコオリンピックが開催される1968年が明けて間もない、
1月9日、円谷選手は自衛隊体育学校宿舎の自室にて、
自ら頚動脈を切って自殺しました。享年27歳。
その傍らには遺書が置かれており、
その内容が公開されるや、世間に様々な波紋を巻き起こしました。

この円谷選手の自殺については、色々な事がいわれ、
様々な論者が様々なことを述べています。

しかし、ここは文学のブログですから、
そのような外野の声はとりあえず遮断して、
円谷選手が残した遺書の文言のみから、
彼の、その最期の心情に思いを巡らせたいと思います。




父上様、 母上様、
三日とろろ美味しゅうございました。
干し柿、もちも美味しゅうございました。

敏雄兄、姉上様、
おすし美味しゅうございました。

克美兄、姉上様、
ブドウ酒、リンゴ美味しゅうございました。

巌兄、姉上様、
しそめし、南ばんづけ美味しゅうございました。
 
喜久造兄、姉上様、
ブドウ液、養命酒、美味しゅうございました。
又いつも洗濯ありがとうございました。

幸造兄、姉上様、
往復車に便乗させて頂き有難うございました。

正男兄、姉上様
お気をわずらわして大変申し訳ありませんでした。

幸雄君、英雄君、幹雄君、敏子ちゃん、ひで子ちゃん、良介君、敬久君、
みよ子ちゃん、ゆき江ちゃん、光江ちゃん、彰君、芳幸君、恵子ちゃん、幸栄君、
裕ちゃん、キーちゃん、正嗣君、
立派な人になってください。

父上様、母上様、
幸吉はもうすっかり疲れ切って走れません。
なにとぞお許し下さい。
気が休まる事もなく、
御苦労、御心配をお掛け致し申し訳ありません。
幸吉は父母上様のそばで暮しとうございました。




自殺する人というのは、どす黒い渦のようなものにのみこまれることにより、
自分自身を見失い、苦しみながら死に至るというような印象があります。

しかし、この円谷選手の遺書からは、
そのような悶え苦しむ心情の乱れのようなものは感じ得ません。
あえて例えていうならば、武士が切腹による死に臨んで、
その場を白い布で囲い、地べたに白い布をひき、
自らも白装束をまとい、静かに粛々と、この世に別れを告げて逝く。

そのような人物にみられる諦念、いや諦念という言葉は、
まだ人間としての灰汁(あく)のようなものが残っており、
ふさわしくないかもしれません。
自分の持っているものを全身全霊で全て絞り尽くして残った
真っ白な抜け殻のようなもの、
それは、やり尽くした達成感とは、また少し違う、
真っ白に燃え尽きて灰のようになってしまった、
その灰が風に静かに舞って逝くような、そんな印象を受けます。

彼は真面目で律儀で、繊細な若者だったんでしょうね。
自殺の数日前のお正月に世話になった親戚の人々に、
一人ずつ自分にしてもらったことに対して丁寧に礼を述べています。

さしたることをしてもらわなかった人にも、
わざわざ礼をいうべき事を見つけ出すようにして、
且つ、人によって礼に差をつけないように、
全ての世話になった人に等しく感謝の気持ちを表しています。

また親戚の子供達の名前をひとりひとり挙げて、励ましの言葉も送っています。

そして最後に、ご両親に対して、
やはりご両親だけは特別な思いがあったんでしょう。
唯一自分の心情ともいえるようなものを吐露しています。
しかし、それとて本当にささやかに、
淡々と簡素に述べられているに過ぎません。


円谷選手の遺書は、ただただ切なく、そして哀しく、
胸がきゅっと締めつけられるものがあります。

自分は自殺を美化するものではありませんし、
まして目的が達成できなかった場合に、
死を以て償うということに陶酔するものでもありません。

ただ円谷選手の生き方を貶(おとし)めるようなことは、
どうしても言うことはできない。

ただただ哀しく、切なく、そしてなんともいえない淋しい思いが心を覆う、
ただそれだけなんです。


なお、この円谷選手の遺書については、
当時、川端康成三島由紀夫、その他の著名人がその感想を述べています。

後編では、それらを紹介しながら、
自分の感想の締めを書いてみたいと思います。





円谷選手遺書の直筆




 
東京オリンピックで力走する円谷選手