らんどくなんでもかんでもR

はじめまして。文学や美術、音楽、そして猫のブログをしています。 よかったら、のぞいてみてくださいね。 Nice to meet you. I write about literature, art, music, and cats.

「赤毛のアン」L・M・モンゴメリ

 

ちょっとした手違いから、
グリーンゲーブルズ(緑の切妻屋根の家)の年老いた兄妹に引き取られた
赤毛で痩せぽっちの孤児(みなしご)だったアン。
初めは困惑していた二人も、明るいアンを愛するようになり、
アンは夢のような美しく移り変わる自然の中で、少女から乙女に成長してゆく…
という古典的名作。

おしゃべりが大好きな、夢想家でロマンティストな女の子アン。
冒頭、駅に迎えに来たマシュウとの、帰り道の馬車の中でのお喋りは、
アンの独壇場で、思わず圧倒されてしまいます。
読んでいる者誰もが、マシュウと同一化してしまうことでしょう。

そのアンのお喋りは、道すがら目にした美しい自然や、自分の未来について、
想像力をふくらませ、空想力を羽ばたかせる、生き生きとした、
いわば、物に命を与えるもの。

そうだとわかっていても、アンのお喋りの、あまりの高密度に、
男の自分は、思わずお腹いっぱいになってしまうところがあります(^^;)

長い間、年老いた妹と二人きりの、ルーティングな農作業の生活で、
感動するということと縁遠い生活を送っていたマシュウの心の中に、
アンのお喋りは、明るい灯を点(とも)します。

家に着き、妹マリラが「あの子が何かの役に立つっていうんですか!」
と厳しく問い詰めると、
それまで寡黙で、妹に口答えなどしたこともないマシュウが、
しどろもどろながら、「わしらの方であの子に何か役に立つかもしれんよ。」
と、アンをそのまま引き取ろうとします。


「赤毛のアン」は、1979年にアニメ化され、
高畑勲と宮崎駿の共同クレジット最後のテレビ作品ともなりました。
自分的に、高畑勲作品の中では「蛍の墓」と並ぶ最高傑作と評価しています。
自分は中学生の時、再放送で視聴しました。
その第1話には、小説のストーリー全体の雰囲気というものが忠実に、
非常によく表れているように思います。
ストーリーを知らない方は、ぜひご覧になってみてください。
https://www.youtube.com/watch?v=DBQgH2o8YKI


血がつながっているわけでもなく、当初望んでいた男の子でもない。
兄妹でひっそり生きてきて、子どもの事は何も知らないと
揶揄される年老いた二人のもとに、
ある日ひょんなことで偶然やって来た赤毛の女の子。

最初のもくろみが、何ひとつ叶っていない中で、
そして、まわりの誰もが上手くいかないだろうと危ぶむ中、
なぜそのようなところに温かい愛情が生まれたのか。
それも血を分けた家族に勝るとも劣らない温かい愛情が。
「赤毛のアン」にはそれが描かれているんです。

そして、そのような強い愛情で結ばれた人々も、
突然、死による別れがやって来ます。

その絆が固ければ固いほど、
その絆を分かたれた時の悲しみは大きいものです。
そんな時、残された人々はどう生きるべきなのか。
「赤毛のアン」にはそれが描かれています。

人生には曲がり角がある。
曲がり角を曲がった先に何があるのかは誰もわからない。
でも、きっとそれは素晴らしいものに違いない。


アンの空想力や想像力は、まだ見えぬ未来を
切り開き、創り出す力を誘(いざな)い、導いてくれるものなんです。

「赤毛のアン」は、女の子の夢や憧れを描いた、
女の子限定の作品などでは、決してありません。
あらゆる全ての人々に贈られるべき
不朽の名作というにふさわしい作品だと、自分は感じます。

原作とアニメ、どちらもお勧めですが、
アニメは、アンが少々オーバーアクションで、セリフなどユーモラスな部分が強調され、
とても面白く描かれており、かつ、なかなか滋味深いものです。
が、しかし、文学的香りという点では、村岡花子さん訳の原作の方に軍配を上げざるを得ません。
どうぞいずれか是非ご覧になってみてください。


最後に、冒頭、アンを乗せた馬車が、白い林檎の花の並木を抜ける際、
それを「喜びの白い路」とアン自ら名付けるエピソードがあります。

自分は、よくブログで、「この花の名前は何ですか。」という質問があると、
「そういう時は自分で新しい名前を考え出して、それで呼べばいいんですよ。」
とコメントすることがありますが、
それはアンから教えてもらったことなんですよ。
 
 
 

 

赤毛のアン (集英社文庫)

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赤毛のアン―赤毛のアン・シリーズ1―(新潮文庫)

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