らんどくなんでもかんでもR

はじめまして。文学や美術、音楽、そして猫のブログをしています。 よかったら、のぞいてみてくださいね。 Nice to meet you. I write about literature, art, music, and cats.

【旅】広島原爆の旅

 

小学3年の夏休みは、広島への旅となりました。
それは個人旅行という形ではなく、
広島原爆体験を聞く親子ツアーというような
パックツアーだった記憶があります。

そのツアーは昼間はフリーでしたので、
宿につくとすぐ、原爆ドーム原爆資料館を見学に行きました。

初めて見る原爆ドーム
それは写真で想像していたよりも大きく、
夏の青い空に向かって鉄骨をむき出しにし
そそり立っているように感じました。

ご存知の通り、原爆ドームは、
外壁だけが残る建物の残骸ですが、
窓がはめこまれていた部分から、
その内部を遠目から覗きこむと、
外の喧騒とは明らかに異なる、
何か不思議な静けさを感じたものでした。

ひと回りぐるっと見て、じゃあ、資料館に行こうかと、
その場を離れる際にも、
なんとなく建物の中の静寂さが気になって、
思わず何度も振り返ってしまうような…
そのような原爆ドームの気配のようなものを
しきりに感じた記憶があります。


さて原爆資料館は、原爆ドームから歩いて5分ほどのところにあります。

資料館に入ると、外に広がる夏の鮮やかな青い空とは打って変わって、
どんよりと暗く、かろうじて中に何があるのかわかる程度で、
目が慣れるとなんとか全体が把握できる、
そんな暗さが印象的でした。

お化け屋敷みたい…
中に入った時の暗さを、当時の自分はそう感じた記憶があります。
(客観的には不適当な言葉かとは思いますが、
当時の自分の印象を忠実に伝えるため、そのまま表現させていただきました)

子供の目には、それほどにおどろおどろしく、息苦しい印象だったのです。

これは大人になって再び資料館を訪れた時、ふと感じたことですが、
この原爆資料館の照明の暗さというものは、
原爆を体験した人の追体験的な意味で、
そうしているのではないかと思ったりします。

昭和20年8月6日も夏の暑い真っ青な空だったといわれています。
それが原爆投下により一瞬に広島の町全体が暗闇に包まれ、
暗闇に慣れて見えてきた光景は、
完全に倒壊してしまった建物、火に包まれる町、逃げ惑う人々…

子供ながらに自分が感じたものは、
そういうことではなかったかと、今では思います。

そして薄暗い展示室に展示されている数々の品。
熱でグニャリと曲がってしまった鉄骨や自転車、
ガラスが鋭く幾重にも刺さったヘルメット、
ぼろぼろでずたずたになってしまった服や帽子。
それを見た当時の自分は怖いというよりも、
どうしてこんなことが起こってしまったのか、
わけがわからず、???をひたすら引きずりながら
展示を見て回った記憶があります。

資料館を出ると、再び自分の元に、
夏の青い空と強烈な太陽の光が戻ってきました。
そして、側には、いつもと変わりない母や弟。

あー、よかった。
みんな一緒にいる。
これがその時の偽らざる思いでした。

青空が輝いていて、みんなが一緒にいる。
いつもは当たり前に思われたことが、
こんなに心強く感じたことはありませんでした。


夜はホテルに被爆者の方を招いて、
その体験談を聞くという催しに参加しました。
旅行当時は、終戦から40年程度経過した時代でしたので、
原爆体験のある方は数多く健在でいらっしゃいました。

お話をされた方は、当時小学校高学年くらいで、
学校の教室で被爆されたという男性の方でした。

話によりますと、教室で先生とクラスのみんなといた時、
いきなり凄い衝撃を受け、校舎が倒壊。
瞬く間に吹き飛ばされ、辺りは一瞬のうちに真っ暗になってしまったそうです。
その方は、倒壊した校舎の柱と机の間に運良くはさまり、
軽く下敷きになった程度でかろうじて命がひっかかった状態で、
最初は大きな爆弾が学校の校舎を直撃したのだと思ったそうです。
その時は、広島全体が同じような惨状になっているとは夢にも思わず、
町から救援が来るだろうと、助けを待っていたのですが、
いつまでたっても誰も救出に現れない。

不安にかられ、何度も先生の名前を呼んでも応答がない。
級友の名前を呼ぶと、何人かは応答があったそうです。
それで真っ暗闇な中、励ましながら、声をかけあっていましたが、
時間が経つにつれて一人二人と応答がなくなり、遂には誰も返事を返してくれなくなり、
独りぼっちになってしまったとのこと。

おそらく校舎が倒壊した際、
体を強打して、内臓が破裂してしまっていたのかもしれないですね。
そういう場合でも、しばらくは生きていられますが、
時間が経つと内臓出血で亡くなってしまう。
校舎の重い木材は、小さな子供の体には衝撃が強すぎたのでしょう。

結局、その方は夕方頃、救助の軍人に救出され、
無事命を拾うことができたのでした。
小学校のような広い敷地の建物は、緊急時の負傷者収容施設になりますから、
救援の軍隊も施設整備のため、真っ先にそのような場所に向かうため、
この方は早く救助された方かもしれません。
そうでない一般住宅では、家の下敷きになったまま
火災が延焼し、命を落とされたという話もよく聞きます。

この体験談は、この被爆者の方の体験時と
ほぼ同世代であった自分にとって非常にショックなものでした。

学校で先生もクラスメートもみんな死んでしまって、
独りぼっちになって身動きができなかったら…
その時、会社にいるお父さんや家にいるお母さん、
幼稚園にいる弟は無事だろうか…
そんなつらく心細い状態が、一体この世に存在するんだろうか…

この時の話の内容もそうですが、
話をされた方の表情や声の抑揚といったものまで
いまだにはっきりと覚えているんです。
子供心ながらに、よほどショックな印象だったのでしょう。

ちなみにこの旅、何を食べたとか全く記憶にないんです。
次の日、宮島の厳島神社にも行って、
なんとなく海に突き出た鳥居も見た記憶はあるんですが、
今ひとつはっきり覚えてないんです。
それだけ原爆の印象で心がいっぱいになってしまった旅だったんでしょうね。

しかし、この時の広島の旅がきっかけで、
それから毎年夏が巡るたびに、原爆ひいては戦争のことについて考え、
様々な本やテレビ番組など目にすることで
自分なりにいろいろ考えてきて、今に至るわけです。
そういう意味では、原爆及び戦争というものを知る端緒となった
自分にとり重要な旅であったように思います。


なお、次回の記事は、社会人になって
20年ぶりくらいに原爆ドームを訪れた時の思い出を
ちょっとだけ書こうと思います。




画像は原爆投下前の原爆ドーム
当時は広島県産業奨励館と呼ばれていました。