らんどくなんでもかんでもR

はじめまして。文学や美術、音楽、そして猫のブログをしています。 よかったら、のぞいてみてくださいね。 Nice to meet you. I write about literature, art, music, and cats.

「桶狭間合戦」菊池寛

 
もしタイムマシーンがあったら、どんな歴史的エピソードを見たいか
という話題がよくあります。

見たいものは無数にありますが、
ドラマチックな瞬間という観点からすれば、浮かぶのは2つ。

まずひとつは、幕末の長州で高杉晋作がわずか数十人の同士で
決起した功山寺挙兵のエピソード。
功山寺にて居並ぶ公卿に向かい、
「これより長州男児の肝っ玉おめにかける」
と言ってのけ、出陣して行く瞬間。
http://blogs.yahoo.co.jp/no1685j_s_bach/2687344.html

そしてもうひとつが、それから遡ること400年、
当時ほとんど無名の尾張の領主に過ぎなかった織田信長が、
間近に迫り来る今川義元の大軍を迎え討つため、
夜中にわかに起き立ち、「敦盛」を謡(うた)い、
出陣していく、その瞬間です。

今回の作品は、その桶狭間の戦いについて描写したものです。

自分の実家は、名古屋市西区にありまして、
信長が当時本拠地としていた清洲と隣接しており、
名古屋市の北の境界辺りに位置しています。
一方、今川勢が迫った大高、桶狭間は、
今の名古屋市の南の境界の辺りで、
それは、JRの東海道線で30分足らずの距離にすぎません。
つまり今日明日にも到着してしまうという目と鼻の先の距離であり、
信長は早急の決断を迫られていたわけです。

今川勢2万5千、号して4万に対し、
織田勢は全軍でも4千にすぎませんから、
重臣達は、信長に籠城を進言します。
しかし信長はそれを明確に拒否。
軍議を打ち切り、奥に下がってしまいます。
結局、一堂はそのまま解散となり、
清洲城につかの間の静寂が訪れます。

夜更けて、信長が広間に現れ、今何時かと尋ねると、
侍女より、夜半過ぎでございますとの返答。

馬に鞍を置き、湯漬を出せと命じ、
食事をすませると信長は、
おもむろに幸若舞の「敦盛」を謡(うた)い出します。
 

人間五十年
化転(げてん)の内を較(くら)ぶれば
夢幻の如く也
一度(ひとたび)生を稟(う)け
滅せぬもののあるべきか
 

ほとんど人のいない夜更け過ぎの清洲城の大広間で、
信長の謡声はどのように響いたのでしょうか。

ちなみに信長が謡ったといわれる幸若舞の「敦盛」は、実は今は廃れてしまい、
ごく最近、信長が謡ったであろう形のものが復元されました。
ドラマなどでよく見る信長の「敦盛」は猿能楽のそれであり、
実際、信長が好んだ幸若舞の「敦盛」は、
舞いよりも謡(うた)に重点があり、手を左右に広げ、頭を動かさず、
一定のリズムで足踏みをするという一見シンプルなものです。

謡も聴いてみますと、
ドラマなどで見るものは重くて低い声のレガート(音をつなげる)調ですが、
幸若舞のそれは、軽やかで、歯切れよくリズミカルで、
その印象はかなり変わります。

興味ある方は是非こちらをご覧ください。
http://www.youtube.com/watch?v=tysvTLPR2EI
映像0:50辺りに「人間五十年~」のフレーズがあります。


謡い終わった信長は直ちに出陣。
夜明け前に、清洲城を出撃した時、
付き従う者は僅か5騎。
続いてくる味方を待ちながら、ゆるゆると進み、
午前8時頃、熱田神宮に到着します。
熱田神宮清洲城と今川勢のいた大高、桶狭間のちょうど中間に位置します。

信長は、宮に参り願文を奉じ、神酒を飲んで、
再び出発したといわれています。
その時、信長勢は二千あまりにその数を増やしていました。
 
熱田を出撃すると、今川勢はもはや目の前の距離ですから、
さぞかし緊張感に包まれていたかと思いきや、
当時の記録は、信長の様子を、このように伝えています。
「熱田出馬の時、信長乗馬の鞍の前輸と後輸とへ両手を掛け、
横ざまに乗りて後輪によりかかり鼻謡を謡ふ」
 
午前10時頃、信長勢最後の拠点鷲津砦が陥落。
あとは清洲城まで平坦地が続き、
今川勢を遮るものは何もありません。
信長は、まさに土俵際に追い込まれた形となりました。

その時、今川勢を監視していた梁田政綱より注進あり
「義元は大高城に移動するため桶狭間を通過中」

この時、天も信長に味方していました。
昼頃になり、松の木をへし折るほどの、
今でいう猛烈なゲリラ豪雨が雷鳴と共に降り下り、
信長勢の軍馬の進む気配をかき消しました。

梁田の注進をもとに、田楽狭間の谷間を進んでいた今川義元を、
山上から駆け下り、一気に急襲し、
わずか1時間あまりの戦闘で義元の首級を挙げ、勝利を収めた。
というのが従来の通説でしたが、
最近の研究では、今川義元桶狭間山という山の上に陣取っており、
信長勢は駆け上がって義元を討ち取ったという説が有力になっています。

どちらにしてもこの辺りは
山といっても、丘に近いような山であり、
また山が連なっているわけでもないので、
周辺の地理を熟知していた信長は、
山と山との間の最短の間道を抜けて接近し、
今川勢の本陣を突き崩し、追い落としたのでしょう。

ドラマ的には信長勢が一気に駆け下って、
油断する今川勢を急襲するという方が
絵になるんですけれどもね。

信長は、逃げる今川勢をあえて深追いせず、
夕暮れには清須に引上げました。

信長に付き従った人々は、出陣から引き上げまで
彼に振り回されっ放しで、
わけもわからないまま信長の言われるがままに従って、
勝利を収めてしまったという感があったでしょう。

おそらくシナリオは信長の胸中だけにあり、
他の者には伺い知ることはもちろん、
想像すら及ばなかったのではないでしょうか。

それでは信長とは一体どんな人物だったのでしょうか。
なぜ桶狭間合戦で圧倒的に不利といわれたにもかかわらず勝利できたのか、
今回の作品をベースに、次回の記事で自分なりに考察してみようと思います。

なお、菊池寛の、この作品、
平明な文章で、事項を詳細に掲げ、全体を網羅しており、
ある意味、アクがなく読んでいて面白いというわけではありませんが、
資料的にそのエピソードがとても参考になります。
日本史上の様々な合戦について書いており、
またいずれ他の合戦についても、記事で触れてみたいと思っています。



http://okehazama.net/modules/battle/image/IY_HK.jpg
上の画像は今川義元(左)を討ち取ろうとする
織田方の毛利新助(右)
毛利新助は、この後信長にずっと付き従い
本能寺の変にて信長と共に横死しました