らんどくなんでもかんでもR

はじめまして。文学や美術、音楽、そして猫のブログをしています。 よかったら、のぞいてみてくださいね。 Nice to meet you. I write about literature, art, music, and cats.

「信長公記」太田牛一





ときは今
天(あめ)が下(した)しる
五月哉(さつきかな)



備中高松城で毛利と対峙している羽柴秀吉救援のため、
出陣直前の明智光秀が詠んだ歌。

新暦に直すと6月のちょうど梅雨真っ只中の今時分のこと。

一見、梅雨の時節の雨の情景を詠んだ歌にも思われますが、
土岐(とき)氏末裔の明智が、今こそ天下をおさめるという思いを露にしたものともいわれています。

この数日後、明智光秀は京都本能寺に乱入し、天下統一目前の信長は非業の死を遂げました。


ところで、この本能寺の変については、その時の信長の様子が事細かに世に知られています。



既に信長公御座所本能寺取り巻き、勢衆、四方より乱れ入るなり。
信長も御小姓衆も、当座の喧嘩を下々の者共仕出し候と思食され候の処、
一向さはなく、ときの声を上げ、御殿へ鉄炮を打入れ候。
是れは謀叛歟、如何なる者の企てぞと御諚の処に、
森乱申す様に、明智が者と見え申候と言上候へば、
是非に及ばずと上意候。
透をあせらず、御殿へ乗り入り、面御堂の御番衆も御殿へ一手になられ候。

(中略)

信長初めには御弓を取合ひ、二・三つ遊ばし候へば、
何れも時刻到来候て、御弓の絃切れ、
其後御鑓にて御戦ひなされ、御肘に鑓疵を被られ引き退き、
是れまで御そばに女共付きそひて居り申し候を、
女はくるしからず、急ぎ罷り出でよと仰せられ、追ひ出させられ、
既に御殿に火を懸け焼来たり候。
御姿を御見せ有間敷と思食され候歟、
殿中奥深く入り給ひ、内よりも御南戸の口を引き立て無情に御腹めされ候。




明智勢は完全に本能寺を取り囲み、四方から乱入してきた。
信長も小姓たちも、下々の者らが喧嘩を始めたぐらいに思っていたが、
やがて鬨の声や鉄砲の響きを聞くに及んで、
信長は、

「これは謀反か。誰の企てだ。」

と仰せられた。

それに対して、森蘭丸

明智の者と見ました。」

と答えたところ、

「是非に及ばず。」

と言って、ただちに御殿に入った。

表御堂の番をしていた者たちも御殿の人々に合流した。

(中略)

信長は、初めは弓を持ち、二度三度それを射たが、弓の弦が切れてしまった。

その後は、槍をとって戦ったものの、肘に槍疵を受けたため退いた。

この時まで側に付き添っていた女房たちに、

「女は苦しからず、急ぎ、罷り出よ」

と仰せになって、脱出を促した。

御殿には火が燃え広がり、自身の姿を見せまいと思ったのか、
殿中の奥深くに入り、内側から御納戸の口を引き立てて、
無念にも御自害なされた。




まるで、その場にいたかのような臨場感あふれるこのエピソード。
実は、これは太田牛一という信長に仕えていた武士が、
本能寺の変から数年して、実際に本能寺の変から逃げ延びた人を探し求めて、
事情を聴取し、それを書き取ったものなのです。

太田牛一は、信長がまだ桶狭間の戦いの前のごく若い頃から、その間近で仕えていました。
最初は弓の名手として、後には事務官僚として、信長の傍らにて活躍しますが、
計数などを扱う事務は彼の性に合っていたのでしょう。
彼は、若き頃から、日々会った人物の名前、見たものの大きさや数や配置など事細かに、
克明に日記に書きつけるのを常としていました。


その彼が、本能寺の変後、長く仕えた主君織田信長のことを、
世に知らしめようと書き記したのが、今回紹介する「信長公記(しんちょうこうき)」です。

彼は序文でこう述べます。


毎日書いていたものが積み重なり、このような形になった。

私の書くものに作り話は一切ない。
もし一つでも偽りを書けば天罰を受けるであろう。


信長公記は、基本的に、編年体で1年1冊の形で織田信長の事跡を書き表しており、

全部で16冊に及びます。
太田牛一は取材や聞き取りに時間を費やし、20年をかけて、それを完成させました。

信長という人は、さまざまな創作においてデフォルメされていて、
彼ほど色々と知られていながら、その実像が分かりにくくなっている人物もおりません。 
贔屓も多いが、アンチも多い人物で、
シンパから言わせると、神のような存在ですが、アンチから言うと悪魔のような魔王。


しかし、どちらもその真実を伝えてもいないと自分は感じます。
語る者の偏(かたよ)った思い入れが、このようなデフォルメを助長しているのだと思うところがあります。

しかし、太田牛一の記述には、対象に対する客観的な観察があります。
そして、それは彼自身も言っていますが、
それは、毎日の細やかな観察の書き付けが積み重なったもの。
今以てなお、信長公記が、織田信長に関する第一級の資料とされる所以です。

なによりも自ら名付けた信長「公」記という題名に、

太田牛一の心意気がかいまみえるではありませんか。

この牛一の著書を、「愚にして直」と評し、批判する向きもありますが、
むしろこれは端的に彼の特長をとらえた褒め言葉ではないかとすら感じます。


実際に信長がどういう人間だったかということを知りたい方は、
まずもってこの「信長公記」をお奨めします。

世に知られた桶狭間の戦い長篠の合戦

本能寺の変後、焼失してしまった安土城の詳細な様子、
信長と家臣、民衆たちとのふれあい、敵方とのやりとり、人質になった人々の悲しい最期など、
戦国に生きた人々の息づかいが思わず聞こえるような作品です。
何か特別なレトリックを用いてるわけでもない淡々とした文章なのですが不思議な感じすらします。
観察の妙とでもいいましょうか。

これを読んでみれば、きっと、知ってるようで知らなかった信長の姿が、
読む者の目の前に現れてくるものと思います。


なお、その他に、その人物の素の姿を表すものとして、手紙が挙げられると思います。
特に内々にインフォーマルに出されたものについては、
その人の性格が如実に表れていることがあります。
以前秀吉の妻おねに信長が送った手紙の記事を書いたことがありますので、
それも併せて掲載しておきます。