らんどくなんでもかんでもR

はじめまして。文学や美術、音楽、そして猫のブログをしています。 よかったら、のぞいてみてくださいね。 Nice to meet you. I write about literature, art, music, and cats.

「人生論ノート 死について」三木清

 
久しぶりに読書の記事です。

三木清「人生論ノート」というと、小林秀雄などの作品と並んで、
高校時代に必ず読めといわれたものです。
しかし当時は難しくて、何を言いたいのか全くわかりませんでした。

そして、あれから長い年月が経ち、社会経験もそれなりに積んだので、
わかるかなと思い、読んでみましたが、
やっぱりわかりませんでした(^_^;)

しかし、完全に理解はできなくとも、
社会経験を積んだ分?ところどころツッコミを入れることはできます。
今回の記事は、そんな視点で読んでいただければと思います。
筆者は、年を取るに従い、死というものが怖くなくなってきたと言います。
それは身近な親族などの死を実際に見てみて、
その様子からそれほど恐ろしいものではないようだと
認識したことにあるようです。

確かにそういうことはあるかもしれません。

実は、自分も同じような体験をしたことがあります。
夜中に車に乗っていると、
今でも、ふと、その時の幼い頃の記憶に戻る瞬間があるんでです。

それは六歳くらいの時、母方の祖母が危篤の知らせを受け、
夜中に、自分は眠っているまま車の後部座席に乗せられ、
病院に向かう車内で、目が覚めた時の記憶です。

いつもは聞き慣れぬ車のエンジン音にふと目を覚ますと、
運転席の父と助手席の母が、
お母さん、間に合うだろうか…
と不安げに会話しているのが聞こえたことを、今でも覚えています。

自分は眠るともなく、起きるともなく、
両親の会話をぼんやり聞いていました。
その時の、無機質な車のエンジン音と、
真っ暗な夜の闇に、ぽつんぽつんと定間隔に位置する街路灯の光が、
どんどん後ろに流れていった景色が、とても印象に残っています。

結局、臨終には間に合いましたが、
祖母は口に酸素吸入器をはめられ、
苦しそうに息をしていました。

この祖母は自分が物心ついた時には、
既に脳梗塞で倒れて自宅療養中で、
何かおしゃべりしたとか遊んだとかそういう記憶は全くありません。
離れでいつも寝ている病気のおばあちゃんという印象でした。

数日後祖母は亡くなりました。
まだ五十代半ばだったと思います。
自宅に安置されて棺桶の中に入っている祖母を見た第一印象は、
不遜な表現かもしれませんが、
まるで眠っているようなというよりは、
箱の中に置かれている物(もの)という感じでした。

もう二度と動くことはないおばあちゃん。
これが自分の、死というものとの一番最初の出会いだったといっていいのかもしれません。

葬式も終わり、親族と火葬場に行き、
焼き場から出てきた祖母の骨を見た時は、
怖いとか、ショックだとか、そういうことは不思議と感じませんでした。

まだ熱をもった熱い台座の上に置かれた人型の白いお骨。

あー、人間てこういうものなんだ、と
ぼんやり祖母のお骨を眺めていた記憶があります。

その日、火葬場に差し込む、
冬の薄くて明るい陽の光が、
なぜか今も鮮明に思い出されます。

母方の祖母はおしゃべりしたり、遊んだりという思い出はありませんが、
ある意味、自分に最初に実際の死というものを教えてくれた人だといえると思います。

今から思うと、棺桶に安置されていた祖母が、
生きているように見えず、ただ箱の中に置かれている物(もの)ように見えたのも、
長い闘病人生で、生のエネルギーを使い切って、
亡くなったからだとも思ったりします。

そういう意味で、生のエネルギーを使い切った死というものは、
この作品の筆者も言っているように、
「死の平和」といえるものであり、
そういう風に迎える死は必ずしも恐ろしいものではない。
自分もそう思います。


ただし、この作品、
「死の問題は伝統の問題につながつてゐる」からの先の文章は、
何を言っているのか、自分には、正直よく理解できませんでした。
その先、
「死者が蘇りまた生きながらへることを信じないで、
伝統を信じることができるであらうか。
蘇りまた生きながらへるのは業績であつて、
作者ではないといはれるかも知れない。」
と続きますが…
まるで謎解きの暗号文のようで…誰か教えてもらえないでしょうか(^_^;)

しかしながら、この作品は、自分にいろいろな提示というか刺激を与えてくれました。

例えば、文中に挙げられた
「われ未だ生を知らず、いづくんぞ死を知らん」という孔子の言葉。

人は将来どういう形で迎えるかわからない死を思い悩むよりも、
今、現にある生(せい)をどう充実させ、全うさせるべきかに全力を尽くすべきであり、
全力を尽くして生を全うした者は、
「平和な死」つまり死すらも全うすることができるのだ。

孔子が直接こう結論づけているかはわかりませんが、
孔子三木清と自分の脳の中にあるものをブレンドして、
自分なりに「死」というものに対し、このように感じるに至りました。


三木清のこの作品、必ずしも読みやすく理解しやすいとはいえませんが、
すべてを把握しようとせずとも
心にひっかかった金言を拾うだけでも得るところがあるようにも思います。

死、幸福、懐疑、偽善、個性についてなど全部で23題が掲載されており、
お好みのものを読んでいただければと思います。
自分も折りをみて、他の主題のものについて記事を書いてみようと思っています。