【美術】クリムト6「女の三世代」
「女の三世代」
クリムト展に行く前までは、この絵を見るのを一番楽しみにしていました。
ある意味、前回記事を書いた「ユディト Ⅰ」よりも
こちらの方が好みだと思っていたのですが、実物を見てちょっと印象が違いました。
この作品、手前には眠るように安らかな表情の若い女性と赤ん坊。
その脇のやや後方にいる年をとった女性。
胸は垂れ腹は出て、手はゴツゴツ干からびており、色はどす黒い。
髪もゴワゴワと縮れている。
こちらの方にどうしても目が引き寄せられてしまうのです。
「ユディト Ⅰ」では手に抱えた死した男の黒ずんだ生首は、
女性の生きた美しさを引き立てるものでしたが、
「女の三世代」の老いた女は、若い女性と幼子を引き立てるというよりも、
彼女自身が主体となって存在しているように感じます。
それは老いに対する絶望と悲しみ。そして死への恐ろしさ。
そこには西洋絵画によくある死して天国に、などという希望的なイメージは
ほとんど見受けられません。
感じるのは、現実の老いに対する苦しみと嘆きのみ。
女性の美しさを引き立てるはずの金色の背景も、その前では虚ろに見えます。
つまり老いというものは、すべてを覆い尽くしてしまう暗闇のようなもの。
そんなものを感じざるを得ませんでした。
そしてもう一つ、クリムトが生後80日で死んだ自分の息子を描いた作品。
「女の三世代」に描かれた安らかな赤ん坊の表情はありません。
クリムトとしては珍しい、極めて写実的な感じの作品で、
もうじき埋葬されてしまう最後の息子の表情を、
必死に写し取ろうとしているようにも感じられます。
生気のない無表情な死した息子から読み取れるのは悲しみと嘆き。
そして亡き子に対する慈しみ。
しかしながら、それよりも強く感じるのは 死に対する恐れ、そしておののき。
クリムトにとって死とは生の美しさを全て奪い取ってしまうもので、
そこに価値を見出すことはできない否定的なもの。
つまりは、目の前にある美しさが全てであり、
それは永遠ではなく、やがては老いと死によって全てが失われてしまうもの。
極めて現代的であり、即物的なイメージ。
そのように感じるところがありました。
彼の描く女性の姿は、若い頃は透き通るように白く柔らかで艶やかですが、
年を取った女は肌の色はどす黒く、固くごわごわしており、
クリムトの美というのは、年を取れば失われて逝ってしまう滅びの美なのだと感じます。
クリムトの美については退廃的享楽的と言われることがありますが、
今回の美術展でそれを感じるところはありませんでしたが、
華やかさの中に、儚(はかな)さや何か淋しさを感じるところがありました。
今はいっぱいに輝きを放っていても、それはいつしか失われる 。
日本人の心情でそれに一番近いのは無常ということかもしれません。
これで、クリムト展の記事は終わりです。
読んでいただいてありがとうございました。