らんどくなんでもかんでもR

はじめまして。文学や美術、音楽、そして猫のブログをしています。 よかったら、のぞいてみてくださいね。 Nice to meet you. I write about literature, art, music, and cats.

「特攻隊に捧ぐ」坂口安吾






戦前、軍国主義一色だった日本は、
戦後になって今までの立場を180度転換しました。
坂口安吾はこれに批判的で、次のように言います。

「敗戦のあげくが、軍の積悪があばかれるのは当然として、
戦争にからまる何事をも悪い方へ悪い方へと解釈するのは決して健全なことではない。
戦争中は勇躍護国の花と散った特攻隊員が、
敗戦後は専もっぱら「死にたくない」特攻隊員で、
近頃では殉国の特攻隊員など一向にはやらなくなってしまったが、
こう一方的にかたよるのは、いつの世にも排すべきで、
自己自らを愚弄ぐろうすることにほかならない。
もとより死にたくないのは人の本能で、死にたい兵隊のあろう筈はずはないけれども、
若者の胸に殉国の情熱というものが存在し、
死にたくない本能と格闘しつつ、至情に散った尊厳を敬い愛す心を忘れてはならないだろう。」


この作品、時には、戦争についてぞんざいな書き方で、
今の我々からすると、びっくりしてしまうところもあります。まるで、酒にでも酔っているかのような。
しかし、はたとシラフに戻り、その放った言葉は思わず自分をハッとさせます。

特攻隊は国家の無理強いにより死を強いられた人々で、
意思無き人形として死んでいったのだという意見があります。

これに対して坂口安吾は言います。

「軍部の偽懣ぎまんとカラクリにあやつられた人形の姿であったとしても、
死と必死に戦い、国にいのちをささげた苦悩と完結はなんで人形であるものか。
彼等は強要せられた、人間ではなく人形として否応いやおうなく強要せられた。
だが、その次に始まったのは彼個人の凄絶な死との格闘、人間の苦悩で、
強要によって起りはしたが、燃焼はそれ自体であり、
強要と切り離して、それ自体として見ることも可能だという考えである。
否、私はむしろ切り離して、それ自体として見ることが正当で、
格闘のあげくの殉国の情熱を最大の讃美を以もって敬愛したいと思うのだ。」


曲がりなにも文学を愛好する者として言わしてもらえば、
彼らの最期に書き綴った言葉はウソ偽りを感じるものではありません。
その遺書は、自らの運命をのみ込みながら、静かに自己の魂と向き合っているのを感じます。

自分は悟りとはほど遠い人間ですが、
悟りとは、このように静かで穏やかなものではないかと思うのです。
洗脳された思想や考え方、どこかからコピーした文章というのはすぐわかってしまうものです。
鸚鵡返しのステレオタイプで、不格好のつぎはぎでアンバランス。
そういったものを瞬時に感じてしまうものです。

しかし、彼らの遺書は違います。
彼らの心の数だけそれぞれの思いがあり、決してステレオタイプなどではない。
そういった彼らの、葛藤し、考え抜いて燃焼した二十年余りの人生は、
通常の八十年の人生にも優る。
そう思います。

しかしながら、彼らは若いですから、彼らのほとんどが二十代前半、
生への執着のようなものが言外に見え隠れすることがあります。
若い青年たちですから、生きたいに決まっています。
生が溢れていたと言った方がいいでしょうか。
しかし、彼らは、それを心の中に収めて、その運命に従っていった。


「私は戦争を最も呪う。だが、特攻隊を永遠に讃美する。
その人間の懊悩苦悶と、かくて国のため人のために捧げられたいのちに対して。」

坂口安吾が言うのは、そういうことなのだと感じます。


しかし、最後にひとつだけ。
特攻というのは自らの身を犠牲にして他を救う誠に尊い行為であったといえます。
しかし、今、戦争が起こって、同じ事をして、あの世で彼らに会ったら、
彼らは我々を厳しく叱責するでしょう。

私たちの礎の上に、なぜ新しいものを築いてくれなかったのか。
70年間あなたたちは何をしてきたのか。

そう、ステージは次に移っているのです。
私達は先人が築いた礎の上に新しいものをしっかりと乗せていかなければならない。
特攻隊で亡くなられた人々の志に続くとはそういうことなのだと思います。















なお、以前、特攻隊の方の遺書の記事を書いたことがあります。
よろしかったら、ご覧になってみてください。