らんどくなんでもかんでもR

はじめまして。文学や美術、音楽、そして猫のブログをしています。 よかったら、のぞいてみてくださいね。 Nice to meet you. I write about literature, art, music, and cats.

100分de名著「こころ」夏目漱石 追補

 
この追補の記事では、「こころ」の感想というよりは、
なぜ作中のKや先生が死に至ってしまうのかという、
人間心理のメカニズムというか、陥りやすい罠というか、
それを鋭い洞察力、観察力で見抜いた漱石について、
記事を書いてみようと思います。

「こころ」を読んでいると、Kの生き方というのは、
非常に繊細で、あまりに融通がきかないと感じてしまうところがあります。
なぜKは心を方向転換することができなかったのか。

心なんて形がないんだから、
いくらでも変更がきくだろうに…
と思う方は心が極めて健康な方です。

自分はこの世の中で、最も変えることが困難なものは、
ある意味、心、こだわりにとらわれた心ではないかと思っています。

心はどのような過程を経て、かように硬直して、
本来の自由な動きを失ってしまうのか。

自分は、医学における癌と同じような構造ではないかと感じています。

癌は、例えば煙突掃除人は、
煙突に附着する炭が反復継続して皮膚に接触することにより、
皮膚癌の発症例が多いというように、
ひとつの大きな要因として、
反復継続して為される刺激が原因だといわれています。

それと同じように、心においても、
最初は小さな一点のシミのようなたわいない傷に過ぎなくとも、
反芻して心を刺激することで、それは次第に悪化し、大きくなってゆく。
そして、それはいつしか悪性の心の癌に変化してしまい、
心全体が深く蝕まれ、侵され、支配されてしまい、
自分自身でコントロールが効かなくなってしまう。

一般的に、そのような反芻は、俺はダメ人間だ。私は生きている価値がない。
というような自らの内側からによるものと、
執拗ないじめや叱責、嫌がらせなど外側からのものとが考えられるでしょう。

末期ともなれば、微かな声なき声で助けを求めるのが精一杯。


Kがふすまを開けて、じっと先生を見ていた。
なぜ声をかけなかったのか。

かけなかったのではない。かけられなかった。
それが彼のできる精一杯だったからではないかと感じます。

Kは一人でいることの多い、自らの心の中でのみ反芻、葛藤することが多い人間です。
彼は信念を極めるため、自ら逃げ道を塞いでいたので、
信念を貫くことができなかった自己をひたすらその心の中で責め、苦悩するうちに、
心全体が深く蝕まれ、侵され、支配されてしまった。

唯一、そのこだわりを捨てて、先生に助けを求めたことがありました。
これがKが救われる唯一にして最後のチャンスだったでしょう。
しかし先生は、それを察することができず、その最後の機会を見逃してしまった。
後に先生はそのことに気付いて、深く悩んだ。
自殺された人間は自殺した人間より、ある意味、不幸です。
だって、どうして?と聞くことは永久にできないんですから。

先生も、その後、閉鎖された孤独な環境の中で、
なぜKを救うことができなかったのかという
答えの無い、出口の見つからない自問自答をひたすら反芻した。
そして、Kと同じように心全体が深く蝕まれ、侵され、支配されてしまった。

ただKと先生の大きな違いは「私」の存在です。
先生はKと異なり、「私」という心の注ぎ込む場可能性のあるものを持っていました。
しかし、にもかかわらず先生は自殺を回避することはできなかった。

それはなぜか。
それは心が既に末期癌のような状態で、いかなる処置も施しようがなかったからです。
十数年間ひたすら反芻し続けた心は、既に先生の意志ではどうすることもできなくなっていた。

ここが非常にリアルで、残酷なところです。

月並みな作家の作品であれば、
「私」と出会った先生は人生の出口を見いだし、
新たな人生を歩むべく、その一歩を踏み出すことができた。
としたかもしれません。

しかし漱石はそのような結末を採らなかった。
それは頑(かたく)なこだわりにより蝕まれ、侵され、支配された心は、
ある一定のラインを越えると治癒することは事実上不可能である。
ということを見抜いていたからです。

ですから十数年間、悶々と反芻していた先生は、既に心の末期癌に犯され、
元気に復活することは到底叶わず、遺書を書くことしかできなかった。


現代においては、孤独社会といわれ、
かつ人々は傷つきやすく、繊細になっているといわれます。

自分の殻に閉じこもり、自分の心の中だけで同じことを反芻する時間が多くなった繊細な人々。
反芻することで、心の傷のようなものは次第に大きくなり、
あるラインを越えると、治癒することが不可能になり、
下手をすれば死にまで至ってしまう。

ですから、そうならぬよう身体上の癌と同じく、
程度の軽いうちに、なるべく早く手を打たなければならないはずなのです。

しかし、心は形なきゆえ、今ひとつ具体的にイメージできず、
また周りの人も気付いてあげることができず、
結局ずるずるとそのまま放置されてしまう。
そして、それはいつの間にか治癒できないほどの重症に至ってしまう。

残念ながらこれからも、このようか心の病は増えてゆくでしょう。

それを回避するには、心の癌の原因となる、そのこだわりを取り除くか、
こだわりの原因となるものから遠ざからねばなりません。

しかし、その原因は容易に取り除けるものばかりではありません。

例えば、心に負荷を与える相手が同居している家族だったらどうなのか。
学校など、判断がまだ未熟な未成年間でそのような関係があった場合(いわゆる学校のいじめ)、
どのように早期に発見し、原因を除去するのか。

その具体的内容については後日述べることがあると思います。


なお自分は精神医学のようなものについては全くの素人であり、
自分の直観で感じたことを書いたに過ぎません。
ですから小説を読んだ一私人の意見、感想に過ぎぬものですので、
その点についてご了承いただければと思います。