らんどくなんでもかんでもR

はじめまして。文学や美術、音楽、そして猫のブログをしています。 よかったら、のぞいてみてくださいね。 Nice to meet you. I write about literature, art, music, and cats.

100分de名著「こころ」夏目漱石 第4回 あなたは 真面目ですか

 
第4回は最終回で、作家島田雅彦さんがゲストでした。
冒頭、島田さんは「こころ」というのは
女性には共感を得られないのではないか、
お嬢さんは蚊帳の外だし…ということを言い出したので、
自分は、それを解説してくれるのかと思わず期待しました。
「こころ」におけるお嬢さんの立ち位置というものに、
自分自身ちょっと煮詰めきれないところがあったからです。

しかし島田さんは、結局それについての詳しい説明はスルー。

そして先生と私の、自分の奥さんすら超える、親密な関係については、
女性とつきあったことがない「私」が
異性に向かう前の同性愛的思慕の対象であったと言っていましたが、
自分的には、果たしてそうなのかなと、やや疑問に感じるところもあります。

なぜならそのように考えると、
私が将来女性と付き合うようになると、
先生との関係は、まるで自転車の補助輪のように、
いずれ「卒業」していってしまうようなものに思われるからです。

先生と私の関係はそんな一過性のものだろうか?
一過性のものでないとすると、
一種のホモセクシャルではないかと
先生とKもしくは私との関係を説明する向きもあります。
これは外国人の方(特に西洋人)が読むと
そのように感じることがあるようです。
しかし、これについても自分は懐疑的です。

そもそもどう生きるべきか、どう死ぬべきかという
人間の根幹に関わる問題については、
年齢や性別、続柄というものを超えて
引き合うものがあるというか、心がシンクロするというか
そのようなものが存在するような気がします。

それが社会的には赤の他人である先生と私との間にはあった。
社会的には夫婦で密接な関係であるはずの
先生と奥さん(お嬢さん)との間にはなかった、もしくは薄かった。
ということなのではないかと。

聖書に次のような話があります。


エスが群衆に話している時、
その母マリアと兄弟たちとが、イエスに話そうと思い、外に立っていた。
それで、ある人がイエスに言った。
「見てください。あなたの母上と兄弟の方々が、
あなたと話そうと思って、外に立っていますよ。」
エスは知らせてくれた者に答えて言った。
「わたしの母とは誰のことか。
わたしの兄弟とは誰のことか」
そして、弟子達に手をさし伸べて言った。
「ごらんなさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。
天にいます私の父の御心を行う者は誰でも、
私の兄弟であり、母なのだ。」


要は、この話は、信仰を同じする者同士の心の結びつきというものは、
非常に深いものであり、
それは血族的なつながりや封建的なつながりを超えて
深く固く結びついているものである。
と自分なりに捉えているのですが、
「こころ」の先生と私との間にも同じようなことがいえるのではないかと思うんです。

個と個の一対一の結びつき。
その結びつきは、ある意味、なんら外形的には寄りどころのない関係であります。

だからこそ、先生は「あなたは真面目ですか」と、
しつこいほど私に、心の内面に深く繋がることができるか問いただしたのではないか。

このシリーズの解説者でありながら、
今ひとつ冴えない感じの姜さんでしたが、
最後の最後に、ひとついい事を言いました。
「真面目というのは、決して選り好みしないで
私の人生の出来事を全て真っ正面から受け入れることが
できるかということを問うたと思うんです。」

これを逆に言えば、
形ばかりの心の結びつき「もどき」のような関係しか結べない人間は、
近代的自我が確立した社会では、
外側からも内側からも孤立していってしまうのではないか。
それを唯一救うのが、心と心の「真面目」な結びつきなのではないか。

「こころ」という作品は、主人公の私が先生の遺書を受け取り、電車に飛び乗ると、
私視点の描写は全て消え去り、
先生が、遺書を読む人に語りかける描写に変わります。
これは漱石自身が、近代的自我により生じた個人という存在に対して
どのように向き合って生きてゆくべきかを
先生の遺書の形を借りて
この作品を読む人に直接問いかけたのではないかと感じます。

独立自律を基調とする個の尊重というものは
多元化で豊かな社会実現のためには、
非常に重要なものであるけれども、
反面、今までの封建的なものと切り離されたため、
どうしても孤立しがちであり、
人はそれにより不安にかられることがある。
しかし、それは新たな人と人との繋がりである、
個々の心と心の深い「真面目」な結びつきにより、静謐を得ることができる。

そのような内面の心と心の結びつきを強調するために、
社会的、封建的といった外形的な意味で、
先生という人間から最も無関係で遠くに位置している
「私」が選ばれたのではないかと思っています。

次回、追補という形で、Kと先生が死に至った理由とその周辺について書き、
「こころ」の記事を終わりにしたいと思います。