らんどくなんでもかんでもR

はじめまして。文学や美術、音楽、そして猫のブログをしています。 よかったら、のぞいてみてくださいね。 Nice to meet you. I write about literature, art, music, and cats.

100分de名著「こころ」夏目漱石 第3回 自分の城 が崩れる時

 
今回のメインテーマは、なぜKは死んだか。
サブタイトルは「自分の城が崩れる時」。

番組では、こういう時に通常用いられるのは「殻」という言葉であるが、
後に自ら築き上げたものということで「城」と表現した。
とのことでした。
しかしながら、自分に一番ぴったりくるイメージは
鎧(よろい)ですので、この記事では「鎧」で説明したいと思います。

先生の親友Kという人物は、
非常に意志の強い、常に精神的な向上を目指している克己の人です。
そうすることで、自分の心の鎧を強固にし、
他人のいかなる反駁も跳ね返し、つけいる隙を与えない、
その鎧をまとっている限りは、心の安定を得ることができ、
さらなる心の安定を求めて、さらに鎧を強固にしていく。

こういう人の、ツボに嵌(はま)った時の強靭さというものは、
非常に自信にあふれ、手のつけられないものがあります。
当初、お嬢さんの存在に心がふらついている先生に対して、
「精神的向上心のない者は馬鹿だ。」
など容赦なく厳しい言葉を言い放ったことなどは
その最たる例ではないかと思います。

しかしながら、Kは、お嬢さんと同居するようになり、
次第にお嬢さんの存在が心から離れがたいものになり、
その強固な鎧の中にある心が苦しみ出します。

心の鎧というものは、その心が、鎧とぴったりと合わさっている時は、
強靭な強さを発揮しますけれども、
いざ中身の心のかたちが変容し、
鎧と合わなくなってしまうと、
その中にある心は苦しみを生じるようになります。

そして、それは、その鎧が強固であればあるほど、
苦しみは強いといえます。
強固な鎧が却って仇(あだ)となってしまうのです。

鎧が合わなくなったのであれば、
脱いでしまえばいいじゃないか?
とおっしゃるかもしれません。

が、しかし、人間の心というものは、
なかなかそうはいかないものです。
心はかたち無きものなれど、簡単に変わり得ることのできない、
非常に頑(かたく)ななところがあります。

ある意味、真面目であればあるほど、
心の苦しみが深くなるところがあります。
その真面目さが却って心を縛ってしまうのです。

その苦しみのあまり、親友の先生に悩みを打ち明けますが、
先生がKに投げつけた言葉は
以前Kが容赦なく先生に投げつけた言葉、
「精神的向上心のない者は馬鹿だ。」

先生は、Kのことをよく知っているだけに、
この言葉は彼に次の言葉を語らせない
Kの弱点を厳しく的確に衝いています。

真面目なKはその言葉にがんじがらめにされ、
その鎧の中で身動きひとつできない状態になってしまったことでしょう。
しかもその鎧は、既に心に合わないものになってしまっているため、
その中にいること自体が苦痛なのです。

ですから、その苦痛から逃れたい。
しかし鎧を脱ぐことができない。
となれば、苦痛を消す方法は、
鎧の中の自分自身を消してしまうことしかない…
と思考が流れてゆくことは、わからないではありません。
むしろそれが論理的とすらいえます。

それでも、そんな自分の信念が一度挫折したくらいで、
死を考えてしまうほどのものだろうか…
と今現在に生きる我々は思ってしまうところがあります。

しかし、今回を機にいろいろ考えてみて、
夏目漱石が、Kや先生をあえて死なせたのは、
こういう意図などではないかと思いついたことがあります。

それは前にも述べましたが、
封建的なものから切り離され、
個人を価値の単位として意識せざるを得ない
近代化における自我の発露ゆえの悩み。
明治という時代に生きた
近代的自我を先導する知識人ならではの悩みというものが、
漱石によって作品に深くたきこまれているような気もします。

それについては次回の追補の記事で詳しく述べたいと思います。

なお、Kのような近代的自我ゆえの苦しみによる自殺に限らず、
自殺する人というのは、なにかしらのものにがんじがらめにされ
(Kの場合は自ら作った鎧という自我によってですが)、
心が身動きできない状態にあるように感じます。
その辺りも含め、一般的なことも、僅かではありますが、
考えるところを述べてみたいと思います。

なお、この第3回の放送を見逃した方、
明日水曜に再放送がありますので、
よろしかったらご覧になってみてください。
詳しくは番組ホームページにて。