らんどくなんでもかんでもR

はじめまして。文学や美術、音楽、そして猫のブログをしています。 よかったら、のぞいてみてくださいね。 Nice to meet you. I write about literature, art, music, and cats.

【人物列伝】22 釈迦

 
4月8日、今日は何の日?と問われて、
ピンとくる人はどれくらい居るでしょうか。

それでは12月25日は?と問われれば、
日本人のほとんどが、イエス・キリストの誕生日と答えることができるでしょう。

4月8日は花祭りの日です。と言っても、
まだ?な人が多いのかもしれません。
答えを言ってしまいますと、
今日は仏教の開祖である釈迦(しゃか)が生誕した日なんです。

イエス・キリストと比べると、
誕生日の盛り上がり具合に、どうしてこれほど差があるのか…
まあ、いわゆるクリスマスは資本主義社会の商業ベースに
しっかりと乗っかっているのに対し、
花祭りはそうではない…ということもあるんでしょう。
あとキリスト教と仏教の世界史的な影響力
(宗教の教義としての優劣ではない)もあるのでしょう。


釈迦は紀元前5世紀、今から二千数百年前に生まれたとされますが、
その実像はベールに包まれています。

生まれた時に、右手で天を指し、左手で地を指して、
天上天下唯我独尊(てんじょうてんげゆいがどくそん)
と言ったという伝説めいた逸話に象徴されるように、
一時期はその実存さえ疑われていた時代もあったそうです。

仏舎利(ぶっしゃり)というものがあります。
入滅した釈迦が荼毘に付された際の遺骨などのことを言いますが、
世界各地の寺院におさめられています。
日本の寺院にもあります。
ところが世界中にある仏舎利を合わせると、
象ほどの骨の量のものが集まってしまうとか。

とにかくこの話に象徴されるように、
釈迦の実像は残ったものからは
ほとんど窺い知ることができないのです。

しかし、釈迦の残したといわれる言葉が残っています。
釈迦本人の説法に最も近いものとされる言動を
収録した本が出版されており、
それを読んでみると、
後世の人間が後付けした聖人然とした釈迦像ではなく、
生の釈迦の姿のようなものが、
おぼろげながら見えてくるような気がします。

そこに浮かび上がる姿というのは、
冷徹な理論家であったり、人々から祭り上げられるカリスマの光を放っているというような、
きらびやかな宗教家の姿ではありません。

自分の足で、一人でも多くの人間に会いに行き、
会った人間と、とことん問答し、
その中でひとつひとつ真理を見いだしてゆく、
いわゆる実践家としての姿が浮かび上がります。

「過去を追うな。未来を願うな。
過去はすでに捨てられた。未来はまだやってこない。
だから現在の事柄を、それがあるところにおいて観察し、
揺ぐことなく、動ずることなく、よく見極めて行動せよ。
ただ今日なすべきことを熱心になせ。」

この宗教を信仰すれば、あなたの未来は薔薇色ですよ。
というような安易なことは決して言いません。

じっくりと地に足をつけて今をひたすらに生きよ。

これほど実践的で、この世の幸せを追究した実(じつ)の思想があるでしょうか。


また釈迦は一般の人にもわかりやすいように、
このような譬えを用いて、人々に警告します。

「学ぶことの少ない人は、牛のように老いる。
彼の肉は増えるが、彼の知恵は増えない。」

今聞いても思わずドキッとするような警句です。
 
「愚かな者は生涯賢者に仕えても、真理を知ることが無い。
匙(さじ)が汁の味を知ることができないように。
聡明な人は瞬時(またたき)のあいだ賢者に仕えても、
ただちに真理を知る。舌が汁の味をただちに知るように。」

自分自身が聡明な知恵のある人間にならなければ、
仮に賢者と生活を共にしたとしても
それは全く無意味なことだと釈迦は言います。

では聡明な知恵のある人間になるには、どうすればいいのでしょうか。

それに対し、釈迦はこのように答えています。

四方のどこにでも赴き
害心あることなく
何でも得たもので満足し
諸々の苦難に堪えて
恐れることなく
犀の角のようにただ独り歩め

寒さと暑さと
飢えと渇え(かつえ)と
風と太陽の熱と
虻と蛇と
これらすべてのものにうち勝って
犀の角のようにただ独り歩め

貪ることなく 詐る(いつわる)ことなく
渇望することなく (見せかけで)覆うことなく
濁りと迷妄を取り去り
全世界に妄執のないものとなって
犀の角のようにただ独り歩め

最高の目的を達成するために努力策励し
こころが怯むことなく 行いに怠ることなく
堅固な活動をなし 体力と智力とを具え
犀の角のようにただ独り歩め


ちょっと宮澤賢治の「雨ニモ負ケズ」の詩を彷彿とさせるものがあります。
宮澤賢治の詩も「(自ら)行ッテ(物事を為せ)」という実践の精神によるものでした。
この釈迦の言葉はそれと全く同意義に感じます。

「犀の角のようにただ独り歩め」
というのは、犀は動きの鈍(のろ)い動物の代表みたいなものですが、
その角は頭の前についているものです。
ですから、ゆっくりでもいいから一歩ずつ一歩ずつ、
犀の角のように、ただひたすら前を向いて歩んで行け
というようなことを意味しているのだと感じます。


釈迦は、その死の直前に次のように弟子達に語ったといいます。

「私が地上を去った後も、
あなた方は、長年私が説いてきた教えを、心の糧として生きていけ。
私の教えを心の糧として、
誰に照らしてもらうでもなく、自分自身で心に灯をともして,
自分自身の行く先を照らしてゆけ。
自分の心に法灯をともして、しっかりと生きていけ。
私が説いてきた教えは、自分をつくる教えであり、
自分をつくりつつ、他人を救っていく教えである。
もろもろの事象は過ぎ去るものである。
怠ることなく修行を完成させなさい。」


誰でもない、自分自身の力で自分の心に灯をともして
歩んでいかなければいけない。
常に、真理の光で、自分自身の心にともった灯を磨き、
より大きく輝かせなければいけない。
その灯で他人を明るく照らし、
その人自身も自らの灯をともして歩んでゆけるよう、助けてあげなさい。
時はすぐ過ぎ去ってしまい、
油断していると、自分の心の灯はどんどん小さくなっていってしまう。
 だからゆめゆめ修行を怠らず、心の灯を絶やさないように精進しなさい。


いかがでしょうか。
若干自分の意訳も含みますが、
今までになかった釈迦像が、皆さんの心の中にイメージできたでしょうか。
そのようなものが少しでも浮かんでいただけたなら、
仏教の寺の家系の端くれとして、嬉しい限りです。