らんどくなんでもかんでもR

はじめまして。文学や美術、音楽、そして猫のブログをしています。 よかったら、のぞいてみてくださいね。 Nice to meet you. I write about literature, art, music, and cats.

【閑話休題】貴乃花の離婚に思うこと









先日、貴乃花河野景子さんが離婚したニュースが世間を賑わしました。
相撲協会を辞め、相撲界から離れてしまった貴乃花を、
夫婦で乗り越えようとしている姿を見た直後だっただけに、
ちょっと意外な感がありました。

世間では、なぜ二人は別れたかということが盛んに言われています。
色々と言われていますが、結局、夫婦間のことは夫婦の間でしかわからないもの。
しかし、これだけは言えるのは、
この夫婦は一番苦しい時に一緒にいることができなかったということ。



そう思うと、三国志劉備関羽張飛の義兄弟達は、
我ら生まれた日は違えども死ぬ日は同じと桃園で誓い合い、
結局それは叶わぬも、それぞれが死ぬまでお互いの事を思い合って貫いた。
史実では、桃園の誓いというものはなかったということですが、
お互いの一生を共にする何か強い絆があったことは確かでしょう。





「桃園の誓い」



それに対して、キリストの弟子は意外とあっさりしていて、
最後の晩餐で、弟子の裏切りを公言したイエスに対し、
私は裏切りませんと言いながら、
エスが捕縛される段になって全員が逃亡し四散。

エスが復活した後、弟子達は悔い改め、残りの人生を命を賭けて布教し、
ぺテロなどは最後、ローマで逆さ磔に処せられ殉教しますが、
とにもかくにもイエスの一番苦しい時に、弟子達は逃げ去ってその場にはいなかったわけです。






「最後の晩餐」レオナルド・ダ・ビンチ



最後まで人生を共にするというのは口で言うほど簡単ではありません。

人生順風満帆で死ぬまで変事が無ければ、その結びつきは試されずに終わるので、
粗(あら)は見えずに終わるかもしれません。

しかし、劉備のように全ての領土を失って、
中年になっても各地を転々と放浪することになったり、
救い主を公言するイエスという人物と一緒にいれば、
自分も磔にされてしまうかもしれないという状況に陥ったり、
今回の貴乃花のように、相撲協会を辞め、
今まで持っていた地位や財産、ステータスといったものを全てを失ってしまったりというように、
乗り越えられるかどうかわからないような困難が起こった場合、
その人の絆が試されるのだと感じます。

人生長く一緒にいれば過ちも犯しますし、
自分の一番弱い部分を相手にさらすことにもなりますし、
理不尽なことをしでかしてしまうこともあります。

しかし、ただひとつ言えるのは、
一番苦しい時に、
自分がこの人と何で繋がっているのかを自覚するに至るということです。

それが無くなったと認識した時に別れが訪れるのかもしれません。




蛇足ながら、最後に貴乃花の話。
円満離婚ですか?との問いに、
貴乃花の、「そうですね。円満で離婚する人って、あんまりいないと思うけど。」
という言葉は真実を語っていると感じます。
一方、河野景子さんのコメントは、世間から揚げ足を取られないよう言葉を極力選んで、
自分の内にあるものを勘繰られないようにしており、定型文のようなコメント。
彼女の本心は明らかにされていない。

河野景子さんコメント全文
https://www.nikkansports.com/entertainment/news/201811280000259.html

そういう意味では貴乃花のコメントの方が、
素直に自己の心情を吐露しているというべきでしょう。



また今回「卒婚」という言葉が話題になっていますが、
個人的にはなかなか意味深い造語だと思います。
卒という漢字からは、卒業というような意味合いが想起されることが多く、
やるべきことを終えて、円満に終える。
とようなニュアンスで使われているように思いますが、

「卒」とは、元々、死ぬ、亡くなるという意味であり、
脳卒中という言葉があるように、
いきなり、突然に、というニュアンスを含む言葉でもあります。
そうしますと卒婚とは、にわかに婚姻関係が無くなってしまうこと、
 突然結婚関係が終わりを迎えてしまうこと、
という意味合いを含む言葉となり、
貴乃花河野景子さん夫妻に対しては、言い得て妙と言いますか、
ちょっと、そんな感じがします。
貴乃花が言った意味合いは、それとは違うのでしょうけれども。


以前、三国志について書いた記事です。