らんどくなんでもかんでもR

はじめまして。文学や美術、音楽、そして猫のブログをしています。 よかったら、のぞいてみてくださいね。 Nice to meet you. I write about literature, art, music, and cats.

100分de名著「こころ」夏目漱石 第1回 私たちの孤独とは

 
記事遅くなりました(-.-;)
新年度で会社の業務が少々たて込んでしまったりで、
本日の掲載となってしまいました。

でも釈迦の記事は書いていたよね?
と、つっこまれるかもしれません。
あの記事は、花祭りの日に、
天から何かがドカンと降りてきて、
なぜかスラスラと書けたのです(^_^;)

しかし、「こころ」は…特に何も降りてこない(-.-;)

というわけで、迷いながら、
試行錯誤しながらの筆となってしまいそうですが、
おつき合い願えればと思います。


さて、番組ですが、前の宮澤賢治銀河鉄道の夜」の時からは、
だいぶリニューアルしていました。
一言でいえば、全く作品を読んだことのない人でも、
あらすじがわかるようになっている。
解説も平易な感じにしており、
全く読んだことのない人にも興味を喚起するように構成しているような、
そんな印象を受けました。

裏を返せば、既に作品を熟知しており、
もっと作品の内奥に迫りたいという人には
物足りないかもしれません。
そういう人のためには、番組の流れに沿った
詳しいテキストがあるという感じです。


さて、第1回のテーマは「私たちの孤独とは」

番組の出演者は、頻繁に作品のイメージが暗いというようなことを言います。
テキストの副題も「陰鬱な世界にはまる」とあり、
暗い=孤独=マイナスイメージ=できれば避けたい
というような感じになっています。

しかし孤独って何だろうと自分は考えます。

「こころ」で先生は言っています。
「自由と独立と己れとに充ちた現代に生れた我々は、
その犠牲としてみんな此淋しみを味はわなくてはならないでせう。」

よく言われることですが、
身分や土地といった封建的なものから切り離され、
個人を価値の単位として意識せざるを得ない現代では、
たったひとりポツンと存在する自己を見つめざるを得ず、
孤独というものがつきまとう。というわけです。

夏目漱石
「自我の時代は個人主義を生ず。
自意識の結果は神経衰弱を生ず。
神経衰弱は二十世紀の共有病なり。」
と言っています。

しかし、ここで待てよとも思います。

そもそも個人の自由、個人主義というものが唱えられたのは、
従来身分や土地など様々なしがらみに縛られ、
個人が自由に発想したり、行動したりすることを妨げられており、
その状態は人間というものの本性及び人間社会の健全な発展に、
ふさわしくないと考えたところにあります。

とすれば余分なものを剥ぎ取って、
その個人だけをじっくり見つめ、
個人を単位とする自由な発想を可能とすることで、
様々な個性を発見し、それを何物にも
邪魔されることなく自由に表現していく。
そうすることで多元的な価値を認める
多彩で豊かな社会が実現するということであったはずです。

余分なものを剥ぎ取って、その個人だけをじっくり見つめる。
というのは、ある意味、確かに孤独な状態です。

つまり孤独と個人の自由な個性の発露とは、
同じコインの裏表のようなもので、
ある意味、孤独でなければ自らの個性を見極めることができない。
逆に個性を見極めた人というのは、
全てのものを剥ぎ取った孤独(孤高)な形で自己というものを見据えている。

ですから孤独とは、本来個人の個性を見極めるために
ついて回るものであると感じるのです。

そういうわけで、孤独を、個人主義現代社会が生み出した
鬼っ子のように言うのは、やや片手落ちというか、バランスが悪い。
そんな印象を受けます。

では「こころ」の先生は孤独か?というと、
正直自分は孤独という感じではない…
と思わざるを得ないところがあります。
先生にぴったりな言葉は「鬱のようなもの」ではないかなと。
(鬱そのものは医学的用語ですのでその使用を避けました)
孤独と鬱のようなものって、どう違うんだと言われるかもしれません。

自分なりの感覚でいえば、
孤独とは個を見極めようとする、ある意味、積極的な状態であり、
何かを生み出そうとしているもの。
鬱のようなものとは目標物というか、到達点が見えず、
ただひたすらぐるぐる回っている感じ。

先生は親友Kの死を目の当たりにして、
ただ後悔と自責の念でぐるぐる回っているような、
そんな気がしないではありません。

Kの死に対して、最初、先生も何らか生きるための意義を
見出そうと努めていたのかもしれません。
しかし近代化における個性の発露とは
必ずしも常に上手くいくものではない。
袋小路に迷い込んでしまったり、挫折してしまうこともある。
というか、そういうことの方が多いのかもしれない。
そうすると個人の個性発現のため不可欠だった
「孤独」というものは次第に変容してしまい、
全てから切り離された単なる「鬱のようなもの」、
つまりぐるぐる回って出口を見いだせず疲れ果ててしまう状態、
に陥ってしまうのかもしれない。

それが「こころ」の先生の孤独、
もっといえば、「こころ」でよく言われる
近代知識人の孤独の正体、実態なのかもしれないと思いました。

でも現代に生きる我々は、
前近代的な封建的な考え方に、もはや戻れないし、
「孤独」というものと上手くつきあい、コントロールし、
もっと言えば、
自分をより豊かにするための武器にしていかなくてはならない。

孤独を恐れて自己を見極めることを放棄してはならないと感じます。
 

ただそのような鬱のような状態で疲れ果てていた「先生」にも転機が訪れます。
それが自分を慕ってくれる、若い「私」との出会いです。

それについては、次回の番組第2回の記事で書こうと思っています。