らんどくなんでもかんでもR

はじめまして。文学や美術、音楽、そして猫のブログをしています。 よかったら、のぞいてみてくださいね。 Nice to meet you. I write about literature, art, music, and cats.

「春雨」宮城道雄



 
宮城道雄といいますと、おそらくほとんどの方がご存じの、
高名な盲目の作曲家・箏曲家であると思います。

若い方で、その名がピンと来なくとも、
新春に、その代表曲である「春の海」を、
耳にされたことがあるのではないでしょうか。
http://www.youtube.com/watch?v=pj33j9-abZY

このように音楽家としてその名を知られている宮城道雄ですが、
実は文筆家としても随筆などの文章を数多く残しており、
彼ならではの物の捉え方が、
非常にユニークで興味深い部分が随所にあります。


この「春雨」という随筆で、まずなによりも衝撃を受けたのが、
健常者は、盲人の視界は真っ暗のように思っているが、
盲人は暗いのも見えておらず、
結局、明るくもなく、暗くもなく、何もない状態であるというくだり。

よく目をつむって、
あー、目の見えない人はこんな風に真っ暗なんだと思うことがありますが、
真っ暗を感じているということは、一種の見えるということである。
というのは、ちょっと自分的にはショックというか、
まさに、それさえもないというのは、
視力という能力を完全に失ってしまった状態なんだなと改めて感じました。

その視界の完全に停止した世界は、
常に目が見える自分には到底実感することができませんが、
しかしながら筆者はそれを嘆くことなく、
自分に残された、物事を聴く力、実際に触って感じる力などフルに発揮して、
自身の芸術家としてのインスピレーションを高めようと努めています。

その中で驚いたのが、絵に直接触れて感じてみて、
絵画を鑑賞しようというくだりです。

確かに油絵などは絵の具の盛り上がりなどがあり、
その描かれたものを感じるということは可能ですが、
絵画というのは本来、色や構図など、
最も目に頼らざるを得ない芸術であります。
そんな、おいそれと作品に触(さわ)れるものではありませんし、
触ったところで絵画というものがわかるのかなと、
ちょっと疑心暗鬼な気持ちになってしまいますが、
それは作品にじかに触れることで、ほんの少しでも、
その絵画のもつ力に近づこうという、
芸術家の執念みたいなものなのかもしれません。
ただし筆者は、執念という言葉にありがちな
肩に力が入った力んだ感じでなく、
温かく穏やかにしとしと降る春の雨のごとしです。

筆者は非常に好奇心旺盛で、
西洋のクラシック音楽にも、
ことのほか興味を示しています。
文中で、フランスのドビュッシーが、
日本の絵を見て感化を受け、作曲したというくだりがありますが、
その代表的な作品は交響詩「海」という作品なんです。
そして、これが交響詩「海」の楽譜の表紙です。



この絵、どこかで見たことがありませんか。
そうです。葛飾北斎の冨嶽三十六景「神奈川沖浪裏」ですね。




筆者はドビュッシーのことを知って、
自分もなんとかして絵画から曲の着想を得たいものだと考え、
果敢に絵画というものに挑んでいったのかもしれません。


そして後半の鶯のくだり。
友人の小説家内田百聞が、筆者の家に鶯を持ち込み、
その鳴き方について、高名な音楽家たる筆者に
うんちくをたれるのは、ちょっと面白く感じます。
そしてその眉唾な?うんちくを真面目に聞いて、
文章で紹介している筆者もまた。

ちなみにその話の中に出てくる「鶯の谷渡り」とは、
このような鳴き声のことです。
http://www.youtube.com/watch?v=H2g3fH2PfM0
ご存知でしたか(^^)



「或る朝、私が眼を醒ますと、
春雨のしとしと軒を打つ音が聞こえて、
すぐ横の障子の外の方で、鶯の声が続けさまに聞こえた
(中略)
わたしが箏の稽古を始めると、
興にのったように、谷わたりや、いろいろに囀った」


朝の、鶯の鳴き声と穏やかにしとしと降る春雨との二重唱、
続いて名手宮城道雄の箏との二重奏。
どちらもなんとも素晴らしい春の共演ではありませんか。

春というと、我々はどうしても、
春の明るい日差しや、色鮮やかに咲き誇る花々など、
視覚に訴えるものに目を奪われがちですけれども、
一度目を閉じてみて、
まあ、それは確かに宮城道雄の視界とは違うものですけれども、
耳から入ってくる春というものに心を傾けてみると、
また違った春の魅力を実感することができるかもしれません。