【万葉集2013】7 白玉の 我が子古日は
白玉(しらたま)の 我が子古日(ふるひ)は
明星(あかぼし)の 明くる朝(あした)は
しきたへの 床(とこ)の辺(へ)去らず
立てれども 居れども
共に戯(たはぶ)れ
夕星(ゆうつづ)の 夕(ゆうべ)になれば
いざ寝よと 手を携(たずさ)はり
父母(ちちはは)も うへはなさがり
さきくさの 中にを寝(ね)むと
愛(うつく)しく しが語らへば
山上憶良
白玉のような我が子古日は
明けの明星が輝く朝になれば
床のあたりを離れず
立っても座っても
共に戯れ
宵の明星が輝く夕べになれば
「さあ一緒に寝ようね」と手をとって
「お父さんもお母さんもそばを離れないでね
ぼくは真ん中で寝るんだよ」と
可愛く言う
万葉集には、子どものことを詠んだ歌というのは、
実は、あまり多くないそうです。
しかしその中で山上憶良という歌人は、
子どもに対する歌を数多く詠んでいます。
有名なものは、
憶良(おくら)らは
今は罷(まか)らむ
子泣くらむ
そを負ふ母も
吾(わ)を待つらむそ
憶良めは
もうおいとま致します
子どもが泣いているでしょうし
子を背負う母も
きっと私を待っているでしょうから
という歌でしょう。
今回紹介した歌は、山上憶良の長歌の抜粋になります。
おさなごの、いつまでも両親から離れようとしない
かわいらしさ、いとしさが、
写実的に、とてもよく表現されています。
幼い子というのは、
お父さんとお母さんが全てのところがあるんですよね。
お父さんとお母さんと、どんな時も、絶対に離れたくない。
そんな愛らしい情景が目に浮かぶようです。
しかし、実はこの歌は、
おさなごを亡くした親の、
子を悼む思いを綴った歌なのです。
この長歌の後半は、
両親に、いつも離れないで僕のそばにいてね。と言っていた我が子が、
死によって引き離されてゆくさまが、
克明に綴られてゆきます。
明星(あかぼし)の 明くる朝(あした)は
しきたへの 床(とこ)の辺(へ)去らず
立てれども 居れども
共に戯(たはぶ)れ
夕星(ゆうつづ)の 夕(ゆうべ)になれば
いざ寝よと 手を携(たずさ)はり
父母(ちちはは)も うへはなさがり
さきくさの 中にを寝(ね)むと
愛(うつく)しく しが語らへば
山上憶良
白玉のような我が子古日は
明けの明星が輝く朝になれば
床のあたりを離れず
立っても座っても
共に戯れ
宵の明星が輝く夕べになれば
「さあ一緒に寝ようね」と手をとって
「お父さんもお母さんもそばを離れないでね
ぼくは真ん中で寝るんだよ」と
可愛く言う
万葉集には、子どものことを詠んだ歌というのは、
実は、あまり多くないそうです。
しかしその中で山上憶良という歌人は、
子どもに対する歌を数多く詠んでいます。
有名なものは、
憶良(おくら)らは
今は罷(まか)らむ
子泣くらむ
そを負ふ母も
吾(わ)を待つらむそ
憶良めは
もうおいとま致します
子どもが泣いているでしょうし
子を背負う母も
きっと私を待っているでしょうから
という歌でしょう。
今回紹介した歌は、山上憶良の長歌の抜粋になります。
おさなごの、いつまでも両親から離れようとしない
かわいらしさ、いとしさが、
写実的に、とてもよく表現されています。
幼い子というのは、
お父さんとお母さんが全てのところがあるんですよね。
お父さんとお母さんと、どんな時も、絶対に離れたくない。
そんな愛らしい情景が目に浮かぶようです。
しかし、実はこの歌は、
おさなごを亡くした親の、
子を悼む思いを綴った歌なのです。
この長歌の後半は、
両親に、いつも離れないで僕のそばにいてね。と言っていた我が子が、
死によって引き離されてゆくさまが、
克明に綴られてゆきます。
我乞ひ 祷(の)めど
しましくも 良けくはなしに
やくやくに かたちつくほり
朝(あさ)な朝(さ)な
言ふこと止み
たまきはる 命絶えぬれ
立ち躍り 足すり叫び
伏し仰ぎ 胸打ち嘆き
手に持てる 我(あ)が子飛ばしつ
世間(よのなか)の道
私はひたすら祈り続けたけれども
少しの間も良くはならずに
だんだんと(我が子)の顔はやつれてゆき
朝が来るたびにものも言わなくなり
ついに息絶えてしまった
思わず私は跳びあがり、地団駄を踏み、
地に倒れ込んで、天を仰ぎ、激しく嘆いた
ああ、私の手の中のいとしい我が子を死なせてしまった
これが世の無常というものなのか…
この歌は長歌で、なかなかリズムや意味を捉えづらいのですが、
紹介した原文を、何度か音読されることをぜひお勧めします。
歌にこめられた音の中に、
おさなごと共に過ごした愛しい気持ち、
死によって引き離されてしまった絶望、悲しみ、嘆きといったものが、
切々と胸に刻まれる思いがします。
何かそれは、自分が、憶良の心の中に入ってしまい、
心を共有しているような、不思議な感覚でもあります。