らんどくなんでもかんでもR

はじめまして。文学や美術、音楽、そして猫のブログをしています。 よかったら、のぞいてみてくださいね。 Nice to meet you. I write about literature, art, music, and cats.

「母」太宰治

 
この物語、「私」が戦時中、津軽の生家で、疎開生活を送っていた時の話ということですから、
主人公の「私」とは、作者太宰治そのものであるのでしょう。

しかしながら、そうは言っても、ここに描写されている出来事が全て、
太宰治が実際に体験したことかというと
そういうわけではないように思います。

例えば、冒頭、「私」を訪ね、親しく交流していた青年に、
ご当地の品種のよい地酒と偽って、ウイスキー清酒を混ぜたものを飲まされた
という突拍子もないような話。

ひょっとしたら太宰治が飲まされたのではなく、
実際は相手に飲ませた体験を基にしているのかもしれないし、
地方文化と偉ぶって言っている人間に、
こういうイタズラをしたら面白いかもしれないと、
頭の中で想像を巡らせていただけなのかもしれない。

えっ、本当にそんなことがあったの?
と思わず注意を引いて読ませてしまうのが、
太宰マジックといいますか、
彼の作家としての力といいますか、
彼が人生を歩んでいるうちに身に付けた、或いは身に付けてしまったものなのかもしれない、
と思ったりもします。

ところがこの作品、肝心の母がなかなか出て来ない。
読めども読めども、私と青年の、うんざりするような掛け合いばかり。

青年は、子供まがいのいたずらで私を騙したり、
はぐらかしたり、ひやかしたり、馬鹿にしたり、
常に私の反応を試し、伺っているような風をみせます。
それに対し、私は青年の態度を、見どころがあると思ったり、
生意気に思ったり、苛立ったりなんですが、
基本的に二人は似た者同士なんでしょうね。
別の言い方をすれば、青年は「私」そのものだともいえるかも。

私をもてなすために、青年が床柱に掛けた写楽の絵、
それは天狗のしくじりみたいなグロテスクな役者の似顔絵なのですが、
それを私にそっくりと青年に言われて、嬉しくなかったのは、
わさわざ大げさにしなくてもよいところを大げさにしたり、
茶化してデフォルメしたりというような、
自分自身の心の内と写楽の絵が重なって見えたからなのかもしれません。

ある時、「私」は青年に誘われ、
青年の実家の津軽半島日本海側の、或る港町の旅館に行くことになります。

しかし、場所を変えても、青年とのウンザリするような、
バカにしたり、茶化したりという、
掛け合いはいつもと変わりません。

そこに入ってきた、四十前後の、細面の、薄化粧した女中。
私はその女の声に惹かれます。
その時には、その女中がどうこうということはないのですが、
何だろうと気を持たせながら引っ張り、最後に種明かしをする
話の持って行き方、伏線の造り方が大変上手く感じます。

私は青年とのつまらない雑談に飽いて、ひどく酔っ払い床につきます。

夜中ふと眼をさますと、外のから聞こえる波の音。
続いて隣の部屋で寝ているほとんど少年らしい若い男の声と
さきほどの女中の声が聞こえてきます。

一夜限りの慰めのようなものかと、邪(よこしま)な想像を抱き、
私が聞き耳を立てて聞く二人の会話。
読んでる自分自身も、「私」と一緒に、こっそりと会話を聞いているかのような、
緊張感、ドキドキ感のようなものを感じてしまいます。

その中で、女中にとって一夜限りのお客でしかなかった男の母が思いのほか若く、
自分と同じくらいの年と知った女中が、
一瞬戸惑うも、母のごとく男を愛おしく大切に思う気持ちに変わってゆく様。
母といるような、客の男の安らいだ心を壊さぬよう、それを必死で守ろうとする女の気持ち。

あくる朝、青年との会話で、
「日本の宿屋は、いいね。」
「なぜ?」
「うむ。しずかだ。」
と、隣の部屋の若い男の言葉をそのままなぞった私。

ここで「しずか」とは、心が落ち着いて安らぐ様を表しているのでしょうか。
母性というような、ほのかに温かで、
心を覆って安らぎを与えてくれるような心地よさに触れ、
束の間、相手の反応を試したり、伺ったり、やりこめてやろうという
うんざりするような駆け引きから解放された私。
若い男の言葉をなぞることで、
私自身も、男の、母性に包まれた安らかな心に
なぞろうとしたのでしょうか。

この作品、自分自身の人生に疲れ切った主人公が、
ひょんなことで、富士が間近に見える甲州を訪れ、
富士を巡る人々や風景によって、
つかぬ間の安らぎを得て再出発する
富嶽百景」に、雰囲気がよく似ているような気がします。
http://blogs.yahoo.co.jp/no1685j_s_bach/6055392.html

上村松園の「母の追憶」と比べると、
「母」という対象も、それに対する想いも、
抽象的で、おぼろげな感じではありますが、
心煩わせる、つまらない駆け引きのような邪なものから全て解放してくれるような、
母のような思い、ここでは母性というべきかもしれませんが、
そのようなものに包み込まれた心地よさ、安心感というようなもについては、
相通ずるところがあるような気がします。