らんどくなんでもかんでもR

はじめまして。文学や美術、音楽、そして猫のブログをしています。 よかったら、のぞいてみてくださいね。 Nice to meet you. I write about literature, art, music, and cats.

【万葉集2013】3 玉梓の妹は玉かも

 
今回紹介する万葉集の歌は



玉梓(たまづさ)の
妹(いも)は玉かも
あしひきの
清き山辺
撒けば散りぬる



詠み人知らず



妻は玉なのだろうか
清らかな山辺
お骨を撒いたら
(きらきらと)散っていってしまった




自分は万葉集の詠み人知らずの歌に、
とても惹かれるんです。
一体どんな人が、どんな気持ちで詠んだのだろう…
歌を眺めながら、その想像が広がってゆきます。

名の知れた著名な歌人ですと、
歌を詠んだ状況は、意外に詳しくわかったりします。
歌に出てくる妻は誰それで、死んだのはいつで、
弔いをしたのはどこどこの山で、
何月何日に、その散骨の際に詠んだ歌です。
という具合です。

しかし、詠み人知らずの歌は違います。
この人達は、一体どんな夫婦で、
二人はどんな人生を送ってきて、
妻を先に見送った夫は、
その後どんな思いで人生を送ったのだろうか…

それについては、全く知る術がありません。
それを推し量る手がかりは、歌に記した三十一文字のみ。

この歌を何度となく口ずさむと、
妻に対する思いが限りなく物悲しく、はかなく、そして美しい。

夫は妻が亡くなったことをしっかり受け止めており、
妻をきちんと弔ってやろうという思いが伝わってきます。

そういう思いをもって、散骨する山辺まで来たのですが、
いざ妻のお骨を撒くと、あっけなく自分の手から離れ、
山辺にきらきらと散っていってしまった。

その刹那に感じた、夫のなんともいえぬ寂寥感、
ああ、これが今生の、妻との別れなんだという、
追いかけてゆきたいような切ない気持ちと
妻を最後まで見送ることができたのかもしれないという、
微かな安堵感のようなものが入り混じった気持ち。

そのようなものを感じました。


ところでこの歌、
ひとつの歌で枕詞が二度用いられている、
ちょっと珍しいものです。
すなわち、「玉梓(たまづさ)の」は「妹(いも)」にかかる枕詞で、
「あしひきの」は「山」にかかる枕詞となっています。

「枕詞とは、和歌にみられる修辞用語のひとつで、
一定の語の上にかかって、ある種の情緒的な色彩を添えたり、
句調を整えたりするのに用いられるものである。
ただし、枕詞自体には直接的な意味合いはない。」
自分は学校でこのように習いました。

意味がないのだから、とにかく覚えるしかないと、
何の枕詞がどんな言葉にかかるかを、
ひたすら暗記した記憶があります。

しかし、この記事を書いている時に、
偶然、枕詞について、
次のように解説しているものを目にしました。

すなわち、
「枕詞で修飾される言葉を、被枕(ひまくら)という。
万葉人は、崇高なもの、大切なもの、美しいものなどをいう場合、
被枕のイメージをより具体化するため、枕詞を用いて、強調的に表現した。
時代が下るに従い、このような意味合いは次第に忘れ去られ、
技巧的な修辞のひとつとなっていった。」


これを今回の歌に照らすと、
「玉梓(たまづさ)の」は、妻を表す「妹(いも)」に対して置かれたもので、
「あしひきの」は、亡き妻を弔った清き「山」辺に対して置かれたもの
ということになります。

つまり、この歌の詠み人は、
妻を表す「妹」には「玉梓(たまづさ)の」を、
妻を弔った清き「山」辺には「あしひきの」を、というように、
それぞれに美しい言の葉を、自分の大切なものの印(しるし)として置いて歌を詠んだのです。
いつまでもそれを忘れないために。

それは決して意味の無い技巧的な修辞などではありません。

そのことに気づいた時、千年の時を超えて、
今となっては名も残っていない、ある夫婦の間に確かに存在した
心のふれあい、契りの深さのようなものに感じ入りました。

美しく、そしてそれはとても深く、穏やかなものです。

ひとつひとつの言葉に、優しく魂がこめられ、そっと添えられたもの。
そのように感じざるを得ませんでした。