らんどくなんでもかんでもR

はじめまして。文学や美術、音楽、そして猫のブログをしています。 よかったら、のぞいてみてくださいね。 Nice to meet you. I write about literature, art, music, and cats.

「鎮西八郎」楠山正雄

 
三国志演義などを読みますと、
人並みはずれた武勇の持ち主、いわゆる豪傑と言われる武人達が、
きら星のごとく登場します。
劉備の義兄弟関羽張飛、宿将趙雲呂布などなどですが、
彼らの一騎当千の活躍はやはり戦場の華であり、
思わず人を惹きつける魅力みたいなものがあります。

では翻って、日本の歴史上の豪傑とは?というと、
意外と名前が出て来ないものです。

自分もパッと考えて、思い浮かぶのは数人程度なのですが、
その中で、一番華のある豪傑ではないかと思われる人物が、この人です。

 


昨年、大河ドラマ平清盛」にも出てきました。
その名を鎮西八郎こと源為朝(みなもとのためとも)といいます。
源為義の八男なので、「八郎」というわけです。
「鎮西」についてはまた後ほど。

この作品「鎮西八郎」は源為朝の生涯を詳細に記した軍記ものである「保元物語」を
子供向けにわかりやすく書いた作品です。

豪傑というと、まずその特徴として、ずば抜けた体格が挙げられますが、
為朝もそれに洩れず、2mを超える大男だったといわれます。
今でいえばボブ・サップなみの巨漢です。
 



 
 
ちなみに他の人物と比較してみると、
為朝の甥にあたる源頼朝165cm、源義経145cm。

三国志の英雄達は、正史によると
劉備172cm程度、諸葛亮趙雲185cm程度とされています。
ちなみに関羽張飛の身長は、残念ながら正史には記載がないんです。

頼朝や義経の身長は、神社や寺に奉納した鎧兜から換算しているので、
まあ正確なところなのかもしれません。
劉備らの身長も正史によるので、
まあ参考にはなるのかなというところです。

しかし、為朝の場合は、着用の鎧兜が残っているわけではないので、
あくまでも物語上の身長ではあります。

また、為朝は大変な強弓の使い手で、
左腕が右腕よりも12cm長かったといわれています。

為朝の弓は五人張りの強弓で(普通の人五人掛かりで引く)、
彼の放った矢は、鎧武者を貫通し、その後ろの武者の袖鎧をも射抜いたといわれます。

大河ドラマ平清盛」でもそんな描写ありましたね(^^)

後年、源義経が壇之浦の合戦で、誤って自分の弓を海に落としてしまうのですが、
危険を顧みず、必死に拾っているのを家来にたしなめられて、
義経曰わく、
「叔父為朝のような強弓ならそのまま放っておくが、
もし平家の連中に拾われたら、
こんな貧弱な弓を使っていると物笑いにされてしまうではないか」
と言ったとか。

まさに三国志の弓の名手達も顔負けの剛力です。

そんな為朝は、年端のいかぬ頃から豪傑肌の暴れん坊で、
10代そこそこで都を追ましたが、
逃れた先の九州にて、土着の豪族達を従え、
鎮西総追捕使を自称します。

鎮西とは西(九州)を鎮(しず)めるの意で、
ここで「鎮西八郎」の誕生というわけです。

しかし運命は変転し、しばらくして、父為義に従い、
保元の乱上皇側として参戦。
相対する天皇側には長兄義朝が与力しており、
父弟対兄の骨肉の争いとなります。
この時、為朝わずか17歳。



とても17歳の面構えとは思えませんね。
まあこれは役者さんですけれども(^_^;)
でもなんとなく、夜中の六本木辺りに居そうな気もします(^^;)

その軍議の席で、為朝は敵への夜襲を献策しましたが、
これに対し左大臣(今でいう総理大臣に近い地位)藤原頼長は、
次のように言い、反対します。
「この戦は田舎武士同士の争いにあらず。 主上上皇の、国をめぐる戦なり。」

実際、父為義は藤原氏の使用人のような立場で、
為朝はその使用人の若輩者の息子に過ぎませんので、
意見など通ろうはずはなかったんでしょう。

結局、上皇側はあべこべに敵の夜襲を受け、不意をつかれ敗退。
その中で、為朝は孤軍奮闘します。
戦場で、兄義朝の「なぜ兄に背くのか、降参しろ。」の問いかけに、
「なぜ父に背くのか、降参しろ。」の厳しいツッコミなど、
なかなか臨機応変の弁も立ちます。

しかし、獅子奮迅の働きもむなしく、衆寡敵せず。
上皇側は散り散りになり、
父為義以下、他の兄弟達は捕らえられて、処刑されてしまいます。

その後、為朝はどうなったのか。
大河ドラマ平清盛」には、その描写が全くありません。

知りたい方は、ぜひこの作品を読んでいただければと思います。

少々ネタバレになってしまいますが、
豪傑らしいといえば豪傑らしい一生を送ることになります。

虚実入り混じったエピソードの多い
(おそらく虚の部分の方も多いと思われますが)為朝ですが、
彼も含めて豪傑というのは、
暴れん坊で手がつけられないけれど、
どこか憎めない愛すべきキャラに感じます。
そして総じて単純(純粋?)で、世渡り下手なところがあります。

九州で大暴れしながら、父為義のために慌てて京に戻ったり、
戦場での兄義朝とのやりとりなどなど。

その辺りが、為朝の豪傑たるゆえんなのかもしれません。

でも豪傑って、なかなか安らかな最期を迎えられないんですよね(-.-;)
三国志の豪傑達もそうです。
いや、むしろ、ああいう最期こそ彼等らしい死と、いえなくもありませんが…

そのような生き様、死に様全てひっくるめて、
鎮西八郎こと源為朝は、
日本を代表する豪傑にふさわしい存在なのではないか。
と自分は感じます。

なお、この作品を読んでさらに興味をもたれた方は、
種本の「保元物語」をお勧めします。
また江戸時代、曲亭馬琴葛飾北斎の挿し絵で書いた「椿説弓張月」も、
為朝を主人公とした冒険ファンタジータッチで、なかなか面白い作品です。



葛飾北斎の絵ですが、
みんなで為朝の強弓をひいてますね(^^;)