らんどくなんでもかんでもR

はじめまして。文学や美術、音楽、そして猫のブログをしています。 よかったら、のぞいてみてくださいね。 Nice to meet you. I write about literature, art, music, and cats.

「農民芸術概論綱要」宮澤賢治

今年初めての読書記事です。

宮澤賢治というと
「鹿おどりのはじまり」や「よだかの星」などの作品の雰囲気から推し量ると、
自然を愛する物静かな青年というイメージがしますが、
この文章の冒頭、少々そのイメージが覆されます。

非常に情熱的で熱の入った、
時には熱が入りすぎてしまっているような、
強い語調で文章が構成されており、
読んでいて、少し圧倒されてしまう部分があります。

「おれたちはみな農民である。
ずゐぶん忙がしく仕事もつらい。
もっと明るく生き生きと生活をする道を見付けたい。」

と直接、農民に語りかけるように始まるこの文章。
農民芸術の必要性や制作の心構えなどについて、
その持論を滔々と述べています。

賢治曰わく、
かつては労働と芸術が合わさっており、労働に喜びがあったのに、
今や農民には芸術による喜びから切り離された、労働と生存があるだけで、
うつろなものに成り下がってしまっている。
そこで我々農民は、新しい我々自身の美を創造し、
芸術をもって、うつろになってしまった労働を燃やして、
喜びを見いだしていかねばならない。

と農民芸術の興隆の必要性について力説します。

文章中、賢治は農民をその対象としていますが、
考えてみれば、これは農民に限らず、
現代においては働いている人全てについて
当てはまるような気がします。
特に現代社会においては、
労働というものは、得てして無機質なものになりがちですし、
現に社会問題として、そのようなニュースを、
耳にするところでもあります。

では、具体的にどのようにして、
そのような芸術の製作をすべきか。

賢治曰わく、
「世界に対する大なる希願をまづ起せ
強く正しく生活せよ
苦難を避けず直進せよ」
とその心構えのようなものを述べた後、

「感受の後に模倣理想化冷く鋭き解析と熱あり力ある綜合と
諸作無意識中に潜入するほど美的の深と創造力はかはる
機により興会し胚胎すれば製作心象中にあり
練意了って表現し定案成れば完成せらる」
と言います。

ちょっと難しいですが、自分なりに解釈しますと、

情熱を傾けることのできる対象が見つかったら、
冷たい頭で、対象を冷静に分析解析しながら、
熱い心で、対象に向かってどん欲に突き進んでゆく。
そのような2つのものを総合して、
無我夢中で対象に入り込んでいけばいくほど、
芸術における美と創造力を深めることができる。
そういったものを心の中に蓄えておけば、
それが、あるきっかけで表に出て、形になることにより、
芸術作品として完成されるものである。

というようなところだろうかと思います。

そのうえで、
誰でもみな芸術家たる感受性を持っているのだから、
それぞれ個性の得意とする方面で大いに芸術としての表現をすべしと、
農民達を励ました上で、

「おお朋だちよ、いっしょに正しい力を併せ 
われらのすべての田園とわれらのすべての生活を
一つの巨きな第四次元の芸術に創りあげようでないか」
と結んでいます。

この下りは、賢治が愛聴したベートーベン第9の歓喜の歌で、
ベートーベン自身が作詞した
「おお友よ、このような音ではない
我々はもっと心地よい
もっと歓喜に満ち溢れる歌を歌おうではないか」
というところに触発されたものかもしれませんね。

この文章、最初は固い演説口調で力の入った感じだったのが、
次第に、流れるような、情熱的で詩的な雰囲気に変化してゆく感じがします。

日々の労働に、芸術による情熱を加え、
人生をより豊かに生きてゆこうという、
自らの人生をかけて、あらゆる面で、
農民の生活をより良くしていこうと努めた
宮澤賢治のエッセンスみたいなものが
詰まった文章であるといえるかもしれません。


そして賢治は、最後に結論と題して言います。

「われらの前途は輝きながら嶮峻である
嶮峻のその度ごとに四次芸術は巨大と深さとを加へる
詩人は苦痛をも享楽する
永久の未完成これ完成である」

人間というものは、何かの完成に向かって
人生を歩んでゆくものだと言われます。
そしてその目指すべきものの完成が、
人間の最終的な目標であるとされます。

しかし、賢治も言うように、
嶮峻なものにはばまれて、
最終目標に、思うように到達することができないこともあります。

それでは、自分の目指す最終目標に到達できなかった者は、
挫折者であり、脱落者であり、
未達成の、取るに足らない者なのか。

いや、そうではないと賢治は言います。

一番大事なことは、常に完成を目指して歩み続けることである。
歩み続けることで、人は、様々な人々、様々な自然、様々な作品と出会い、
共鳴し、触発され、人生をより豊かにしてゆくことができる。
途中で諦めたり、くじけて止めてしまったら、
それは途絶え、やがて萎んでいってしまう。

最後の最後まで完成をめざし、歩み続け、出会い続けることで、
その人の人生最高の高みに至ることができる。


「永久の未完成これ完成である」

とは、こういう意味ではないかと自分は感じています。