らんどくなんでもかんでもR

はじめまして。文学や美術、音楽、そして猫のブログをしています。 よかったら、のぞいてみてくださいね。 Nice to meet you. I write about literature, art, music, and cats.

【絵画】「雪中雄鶏図」他 伊藤若冲

 


 

 
先日、横浜のそごう美術館にて「琳派若冲と雅の世界」という展覧会に行ってきました。
4月に「宮沢賢治・詩と絵の宇宙 雨ニモマケズの心」という展覧会を見に行き、
記事を書きましたが、そこと同じところです。

休日に自宅から出向いて美術館というのは、なかなか億劫なのですが、
そごう美術館だと仕事帰りに寄ることができるので、
無精者の自分には打ってつけの美術館なのです。

さて、自分は、展覧会では、展示されている作品全般に興味をもつ場合と、
展示されている作品の特定の一部だけに興味をもつ場合とがありますが、
今回の展覧会は後者です。

前々から伊藤若沖の作品を見てみたいと思っており、
今回初めて見ることができました。

彼についてご存知ない方もいらっしゃると思いますので、
簡単に紹介しますと、

伊藤若沖(いとうじゅくちゅう)(1716~1800)は江戸時代中期の人。
京都の裕福な商家に生まれ、23歳で家督を継ぎましたが、
商売に熱心でなく、芸事もせず、酒も嗜まず、生涯、妻も娶らず、
ひたすら絵を描くことを好んだということだそうです。
やがて若冲は家業を放棄し、40歳で家督を弟に譲り、隠居します。
隠居後の若冲は、町年寄など少々町政に関わる以外は、
作画三昧の日々を送り、若冲は85歳の長寿を全うしたとのこと。

一般的にみると好きなことを腹いっぱい一生涯できて、羨ましい限りではあります。

しかし羨ましいと思う反面、翻って自分で考えてみるに、
果たして、仕事もせず、芸事もせず、酒も嗜まず、妻も娶らず、
ひたすら40年間、情熱を注ぎ込めるものが自分にあるだろうか…と思います。

自分的に言うと、伊藤若沖は「絵に取り憑かれた人」というところでしょうか。

さて、前置きが長くなりましたが、
伊藤若沖というと鶏の絵が有名です。

なんでも若沖は、絵を描くため、庭で数十羽の鶏を飼っていたそうで、
今回展示されていたのは「雪中雄鶏図」という作品です(冒頭画像のもの)。

作品の前に立つと、まずその存在感に驚かされます。
鶏の存在感に思わず吸い込まれてしまうような、不思議な感覚にとらわれます。

絵の存在感に吸い込まれる感覚にとらわれる画家といえば、自分的にはゴッホもそうです。
「星月夜」でも「自画像」でもそうですが、
思わず絵に引き込まれるというか、吸い込まれるというか
そんな感覚にとらわれます。
 
 

 



しかし、自分にとってゴッホは怖いところがある。
彼の、絵にたたきつける情念といいますか、執着といいますか、
その正体は、必ずしも定かではありませんが、
そういうものに思わず吸い込まれそうで怖い。

深遠というようなものとは、ちょっと違うものを感じることがあります。

それに比べると若沖の絵に吸い込まれる感覚は、鏡のように澄んだ水面をみつめて、
それに吸い込まれるような感覚に似ています。

作品の対象に対して、それを純粋に見つめる作者の心が投影されているといいますか。
作者の怒り、喜びというような感情のようなものよりは、
ひたすら対象に対する深い観察、洞察といったようなものを感じます。

遠くから眺めたり、直近から眺めたり、30分くらい同じ絵を見ていましたが、
その印象は変わりませんでした。

自分が見た「雪中雄鶏図」の全景と近景の画像を添付しようと思ったのですが、
残念ながら適当なものが見つからなかったので、
「紫陽花双鶏図」という作品のものを添付しておきます。
 





その他にも、嵐にさざめく竹の葉の一瞬を捉えた「風竹図」。
ものの見事にその一瞬を捉えていて、思わずハッとしました。
あとは、面白い構図で仔犬のかわいらしさがよく出ている「仔犬に箒図」など(以上2作品下記画像)、
僅かな時間ではありましたが、楽しむことができました。
 




絵画鑑賞というのは、実際に足を運んでみて、
作品の本当の色使いや絵の具の盛り上がり具合など気づくことがあります。
この辺りが文学とは違うところですが、
足を運べば、やはりそれだけのものはありますね。