らんどくなんでもかんでもR

はじめまして。文学や美術、音楽、そして猫のブログをしています。 よかったら、のぞいてみてくださいね。 Nice to meet you. I write about literature, art, music, and cats.

【けっさんさん10月課題分】「転生」

私は仕事が終わると、いつものように寄り道しないで真っすぐ家路についた。

秋の夕暮れ時、まだ辺りは暗くはなかったが、昼間という感じでもない、
ぼんやりとした薄明るい時間帯だった。

アパートの階段を上っていくと、自分の部屋の前に一人の男が立っていた。

四十代、いや五十代だろうか、痩せた無精ひげを生やした一見冴えない男だった。

男は私を認めるや、近づいてきて声をかけてきた。
「よう、ひさしぶり」

ところが、私は男に全く見覚えがなかった。
男は続けて言った。
「やっぱり覚えてないか。姿形がだいぶ変わっちゃったからなあ」
そう言われてみると、どこかで会ったような気もする。
でもどうしても男が何者であるか思い出せない。
私はなぜか男の正体が気になって仕方なかった。

「まあ立ち話もなんですからとりあえず上がってください」

「そっか、じゃあ遠慮なく」

まあ安普請のアパートだしまさか物取りの類ではないだろう。
私はさほど不安には思っていなかった。

男は部屋に入ると、ドカッと畳の上に腰をおろした。

「何か飲みますか。コーヒー、紅茶、コーラ、りんごジュース…」

「りんごジュースもらおうかな。樹液系っていうのかな。俺好きなんだよな」

男は私が差し出したりんごジュースの缶をぐいっとひと飲みすると、
おもむろに話を始めた。

「…あんた、半年くらい前にさあ、
逆さまになってたコガネ虫つまんで放り投げたことあったろう」

私は男がいきなり予想もしなかった話をし始めて、少々面食らった。

「ええ、まあ、ひっくり返ってかわいそうだったんで、つい…
あの~、あれを見てたんですか」

「まあ見てたっていうかな。
かわいそうってわりには思いっきりぶん投げてたような気もしたがな」

半年前、私はちょうど読んでいた芥川龍之介の「蜘蛛の糸」に触発され、
朝の散策時に逆さまになって蠢いていたコガネ虫を拾って、林に逃がしてやったことがあった。
男はおそらくその時の事を言っているのだろう。
しかし男はわざわざそんなことを言いに、ここに来たのであろうか。


二人の間でしばしの沈黙があったが、
男はとうてい信じることができないような驚きの告白をした。

「実は俺な、あの時のコガネ虫が生まれ変わって、この姿になったわけよ」

私はあまりのことに一瞬言葉につまったが、話に疑問があってすぐ切り返した。
「えっ、でも…あれがあったの、まだ半年前ですよ。
生まれ変わりだったら、まだ赤ちゃんなんじゃ…なんでもうおっさんなんですか」

男はフッと鼻で笑いながら答えた。
「あんたも頭固いな。まあ、あの世の仕組みを知らないから仕方ないか」

男は一旦間を置いて、りんごジュースの空き缶を灰皿がわりにタバコを吸い始めた。
男はタバコの煙をふうっとゆっくり吐き出すと言葉を続けた。

「この世はある意味修業の場ってわけよ。
生きている間にやり残しのある生き物は転生するわけ。
一生何もしないでぶらぶらしてりゃ、そりゃ、赤ん坊からってことなんだが、
俺の場合そこそこ修業こなしたから、おっさんからスタートってわけよ」

転生が修業のやり残しに応じて途中からスタートなんて話聞いたことなかったが、
よくよく考えてみれば理にかなっているような気もする。
わたしは質問を続けた。

「あのー、コガネ虫で修業が足らなかったことって一体何ですか?
エサを必要以上に貯めこんだとか、メスに二股かけたとか…ですか?」
「それよ、そこであんたが大いに関係してくるわけよ」
「ぼ、僕がですか!?」

「そうよ。俺はマンションの廊下に逆さまで転がっていた姿、
あれは人間でいえば、大の字であお向けになっていたわけよ。
もう寿命生きたし、メスとの間に子孫も残したし、
ある意味、大往生で大の字になって死ぬのを静かに待ってたんだ。
そこで現れたのが、あんたってわけ」

男はタバコの吸い殻を空き缶の中につっこみながら話を続けた。

「あの時は俺、目を閉じて静かにしてたから、
いきなりあんたに放り投げられて、地球が階段から転がったかと思うくらいびっくりしたよ。
運良く軟らかい土の中に着地できたんだが、危ないところだったぜ」

逆さまにひっくり返っていたコガネ虫は、さぞ苦しそうに蠢いているように見えたのだが、
そうではなかったらしい。

「それで俺は泥にまみれて我に帰った時、
まみれついでに生にもまみれて執着しちまったってわけよ。
まだ生きたいってさ。
放り投げられてびっくりして生に目覚めちゃったっていうのかな」

「すみません、僕が余計なことをしたばっかりに…」
私はなぜだかわからないが思わず謝ってしまった。

「まあ厳密にいうと、あんたが悪いことをしたわけじゃないけどな。
そのきっかけを与えただけで。
きっかけを与えられた俺が心で修めれば良かったんだな。
それができなかったってことは修業が足りなかったんだな。
生き物には死に時っていうのがあってさ、
それを逃してただ生を長らえることに執着すると、やっぱりそれは自然に叶ってないわけよ。
それをやっちまったんだな、俺は」


二人の間でしばし不思議な沈黙の間があったが、やおら男は立ち上がって言った。
「じゃあ言いたいこと言って用件済んだから、俺帰るわ。
今話したことせいぜい自分の人生に役立ててくれや」

男はぼうっとしている私を残して、そそくさと部屋から出ていった。
私はハッと我に帰って、男の後を追って玄関の外に出た。

男はもう道路を渡って、いつの間にか日がとっぷりと暮れて明かりがついて賑やかになった、
道向こうの商店街に消え去ろうとしているところだった。


今のは夢だったのだろうか…
日が沈み、すっかり暗くなった部屋を振り返ると、
男が飲んだりんごジュースの空き缶がテーブルにぽつんとひとつ。
ほのかにタバコの匂いがまだ部屋に漂っていた。


                                             終