らんどくなんでもかんでもR

はじめまして。文学や美術、音楽、そして猫のブログをしています。 よかったら、のぞいてみてくださいね。 Nice to meet you. I write about literature, art, music, and cats.

【映画】はだしのゲン

今年8月6日は66回目の広島原爆忌でした。

自分が原爆というものを初めて知ったのはこの映画です。

 
 

はだしのゲン」(1976年)
製作・監督 山田典吾
出演
父 三國連太郎
母 左幸子
ゲン 佐藤健太
弟 進次 石松宏和
 
 

映画公開から何年も経ってから、小学校3年生くらいの時近所の公民館で見た記憶があります。

舞台は1945年広島市
主人公ゲンの父で下駄の絵付け職人大吉は公然と戦争に反対していたため、
家族は非国民扱いされ様々な嫌がらせを受けるも、
小学校2年生のゲンは弟進次とともに明るくたくましく生きていました。


戦争中ではあるけど、家族全員一緒の穏やかな暮らし。
原爆投下の夜明け前、家族全員が静かに寝入っているシーンがなにか胸が締めつけられる思いがします。

そして運命の日の8月6日の朝、主人公ゲンはいつものように登校します。
家には父母姉弟がいました。

ゲンが校門の前で原爆を投下するB29を見た直後、光が一閃。
辺りは凄まじい爆風に包まれ世界は一変します。
当時の広島市の人口42万人。即死者(行方不明含む)12万人。

しばらく気を失っていたゲンは急いで家に戻ります。
軒並み倒壊した家屋、ひどいヤケドで道をさまよう人々、家の下敷きになり助けを求める人々。
町にはあちこちに火の手が上がっていました。

映画を見た当時、自分は初めて見るこの世の地獄絵に、
果たしてこんなことが本当にあるんだろうかと胸の動悸が収まりませんでした。

やっとのことで家に戻ったゲンは、自分の家が倒壊し、父と弟が下敷きになっているのを見ます。
姉は家の奥で即死。
母だけは投下時2階ベランダで洗濯ものを干しており、外に放り出され、かろうじて無事でした。

当時の日本家屋の梁は太かったんでしょうね。
細腕の母と少年の力ではびくともしません。
他の人に助けを求めようにも、皆自分が逃げるのに必死です。
そうこうしているうちに火の手が迫ります。
家の下敷きになって動けない父は、ゲンに母を連れて逃げろと言います。
いつも仲良くしていた弟は、兄ちゃん助けて助けてと泣きじゃくります。

見ていた当時、原爆投下直後のシーンからぬぐってもぬぐっても溢れていた涙が、
このシーンを見て一気に堰を切ったように流れ、
両手で顔を覆っても、指の間から涙が次から次へと流れ落ち止まりませんでした。

自分も4つ年下の仲のいい弟がいましたし、
それを火の中に置いて逃げるなんて世界は、その時まで想像すらしませんでしたから。
映画を見て、ある種ショック状態になってしまったのかもしれません。
隣の席で見ていた母が「大丈夫?出ようか?」と声をかけてくれたのを覚えています。


次の年、自分は初めて広島を旅行し、原爆ドームを見て、
あー、ゲンの体験した世界は本当にあったんだと思い知りました。

それ以来今に至るまで何度となく広島を訪れていますが、
年々原爆ドームは年を取って朽ちていっているような気がします。

それと同時に、ガイドの人の話では、
最近は「不幸中の幸いでしたね。原爆が公園に落ちて」という観光客もいるそうです。
現在平和公園になっている辺りは、当時家屋が軒を連ねたくさんの人々が住んでいた、
広島でもにぎやかな地区だったということを知らない人が、現れはじめたんですね。


自分は広島長崎の原爆体験を風化させず、
正確にその「事実」を語り継ぐのは日本人の義務だと思っています。

悲劇を繰り返さないための平和の実現方法には,、
政治的に、国や人によって様々な考え方があり、
ここでは言及しません。

ただ絶対に忘れてはいけないのは、
核兵器が落ちるとその下の何万何十万の人々に、ゲンのような悲劇がふりそそぐという「事実」です。
それをしっかりと肝に収めて議論することが、重要なのではないかと思っています。

数年前、映画「はだしのゲン」がテレビで放送されましたので、録画して小学生以来見ました。

映画を見ると、あの時このシーンではこう感じた、あのシーンではこう思ったと、
克明に思い出せるんですよね。
今だに胸にほろ苦く締めつけられるような思いを感じ、当時を思い出したものでした。