らんどくなんでもかんでもR

はじめまして。文学や美術、音楽、そして猫のブログをしています。 よかったら、のぞいてみてくださいね。 Nice to meet you. I write about literature, art, music, and cats.

【人物列伝】12 お雅



 



前回高杉晋作と愛妾おうのとのちょっといい関係について書きました。
それでは本妻との関係はどうだったんだということは当然気になります。

晋作は22歳の時萩城下で評判の美人と名高い井上平右衛門の娘お雅と結婚しました。
この時お雅16歳。
お雅の写真は年を取ってからのものしかありませんが、おとなしそうな可愛い系の人っぽいですね(^^)
その面影あります。

実は晋作はあまり結婚に乗り気で無く30歳まではその気はないといっていたのですが、
周りの説得により渋々結婚に承諾しました。
美人と渋々結婚したとは心憎いばかりですが、
当時、師の吉田松蔭が安政の大獄で斬首されたばかりであり、
晋作の荒れ狂う心を鎮めるのに新妻お雅の存在は大きかったのかもしれません。

2人のかかわりをみていると兄と妹のような夫婦という感じですね。
晋作は出先からお雅に反物や帯を買って送るとともに、読書をしなさいと本を贈ったり、
武士の妻たるたしなみとして和歌を詠めるように細かいアドバイスをしたりしています。

おうのとは気兼ねなく馬鹿騒ぎできる仲だったのでしょうが、
お雅の前では案外神妙にすまして良夫を装っていたのかもしれません(^_^;)

結局2人の結婚生活は僅か6年ほどで、一緒に暮らしたのは1年半ほどでした。
しかしその間に嫡男東一が生まれています。
この東一が晋作そっくりなんですよ(画像参照)。
 
 

 
 
彼は後に外交官としてアメリカにも渡り、業績として「英和新国民辞書」の纂訳をしています。
なお晋作直系の末裔の方は今もご健在です。

ではお雅とおうのの直接対決はあったかといえば、やっぱりこれがあったんです。
萩から下関にお雅と東一が来ることになった時ことのほか晋作は慌てています。
「動けば雷電の如く発すれば風雨の如し」と称された面影全くありません(^_^;)

その時晋作が詠んだ漢詩が次のものです。

妻児将到我閑居
妾婦胸間患余有
従是両花争開落
主人拱手莫如何


かいつまんで要約すると
お雅と東一が下関にやってきて、おうのは心が落ち着かない。
2人が相争って火花を散らしているが、私晋作は為す術なくお手上げだ

というところですね(^_^;)

しかしこの争いとやらもいわゆる「この泥棒猫!」という取っ組み合いの類ではなく、
お雅とおうのの性格からいって両者ひたすら沈黙だったような気がします。
ひょっとしたら晋作が独りで勝手に針のむしろに座っていただけで、
女性2人はどう相対していいかわからず、切り出すのを躊躇していただけの沈黙のような気もします。

晋作はせっかく下関に来たのだからと、お雅を料亭に連れて行き芸者をあげてどんちゃん騒ぎしたりしていますが、後年、お雅は芸者遊びのどこが面白いのか分からなかったと述べています。
晋作はお雅に楽しませようと思って連れて行ったのでしょうけども。

要は晋作とお雅はお互いのことをまだよく知らないまま死別せざるを得なかった
ちょっとかわいそうな夫婦だったのかもしれません。

その後ほどなく晋作は病死し、お雅は22歳の若さで未亡人となりました。
まだ若く美人で評判でしたが生涯再婚しませんでした。

明治になり高杉家の人々は東京に移住しました。
一方、おうのは出家して梅処尼となり東行庵にて子どもに三味線や歌を教えながら、
晋作の墓守として暮らしました。
お雅とおうのはお互いに東京と長州を行き来し、亡き晋作を偲んだといいます。

お雅もおうのも我を通すタイプではないので、
お互いに譲り合うといいますか、認めあうというか、尊重しあう部分があったのかもしれません。
そう考えるのは男の勝手な善意解釈でしょうか(^_^;)

お雅は大正11年77歳にて死去。
晋作が死んで55年後、おうのが死んで13年後のことでした。

思うに歴史上の事件ばかり拾ってみると、
いわゆる歴史上の偉人としての高杉晋作しか出てきませんが、
お雅やおうのを通してみると、どこにでもいるような若者としての高杉晋作をかいま見ることができ、
とても親近感が湧いて好きなんです。

なお高杉晋作自身については【人物列伝】で取り上げていますので、
ぜひ読んでいただければ嬉しいです。
もたんもぞの高杉晋作の史跡を巡る紀行文付きです。