らんどくなんでもかんでもR

はじめまして。文学や美術、音楽、そして猫のブログをしています。 よかったら、のぞいてみてくださいね。 Nice to meet you. I write about literature, art, music, and cats.

「方丈記」鴨 長明

本日読んだのは鴨長明方丈記」です。

冒頭部分の
「行く河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかたは、かつ消え かつ結びて、久しくとどまりたる例なし。世の中にある、人と栖と、またかくのごとし。」
は無常観を見事に表現した名文といわれます。
冒頭部分に関しては確かにその通りだと自分も思いますし、この部分があったればこそ「枕草子」「徒然草」と並ぶ随筆と今をもって讃えられている部分があると思っています。

方丈記が書かれた経緯ですが、もともと賀茂御祖神社の神事を統率する家に生まれた作者は50歳の時とある神社の神職に就く話が持ち上がったものの、一族の反対に遭って実現せず、これがきっかけで公職を全て辞し、出家遁世したとのことです。

ここで少々驚いたのは神道神職に任官できなかったので出家する(仏教)という発想です。
神道は宗教というより世俗の官職の一種という感覚だったんでしょうかね。

そして出家した後に日野の山に方丈の庵を結んだことから「方丈記」と名づけたとのことです。
一丈は3m強ですから四畳半より少し広いくらいでしょうか。
1人で住むには十分ですね。

方丈記の最後で、作者は出家した事情について「世をのがれて、山林にまじはるは、心を修めて道を行はむとなり」と言っています。
要は俗世との縁を断ち切って心の修行をし人間を完成させるためだと言うところでしょうか。

作者はその他にも、人間の営みは、すべて愚かしいもので、その中でも京に家を建て財産を費やし心配の種を増やすなんて、全く無意味で馬鹿げたことだ。などと言っています。

しかし作者の経歴を見てから書いたものを見ると、この人は世の無常観を心の底から思い俗世から離れて心を治めようと思っているのだろうかと考えてしまいます。

言葉は悪いですが一種の逃げ口上といいますか、現世が思うようにいかず仕方ないからそれを捨てて出家したみたいな感が無きにしもあらずのような気もします。

ちょっと意地悪なことを言うと、偉い神職に就きながら全てそれを辞して俗世を捨て出家するというなら、あーなるほどと思いますけれども。

出家後も作者は鎌倉に赴き仕官の口を聞きに行ったりして上手くいかなかったということなどもあるようで、俗世に未練を残しながら心が行ったり来たりしていたみたいです。
作者は作品内ではもちろん直接そんなことを言いませんが端々からそういう思いが見え隠れしているようなしていないようなというところです。

これは経歴を作品と同時に見てしまった自分の先入観かもしれません。
しかし最初全文通して読んだ時、世間がいうほどには無常観が表れているとは感じなかったのも事実です。

ひょっとしたら自分の原文の読みが甘いことからそう読めてしまっているのかもしれませんので、折りをみてまた読んでみようと思っています。