らんどくなんでもかんでもR

はじめまして。文学や美術、音楽、そして猫のブログをしています。 よかったら、のぞいてみてくださいね。 Nice to meet you. I write about literature, art, music, and cats.

「入社の辞」夏目漱石

 

今年も自分の会社にもフレッシュマンの面々が入社してきました。
彼らを見ていると社会に対する期待や意気込みというものが感じられ、
見ていて、とても気持ちのよいものです。
また一方で、初めて踏み出した社会への
戸惑い、不安感のようなものも垣間見えて初々しくもあります。


そして、今をさかのぼること約100年前、
ここにもフレッシュマンとして
人生の新たな一歩を踏み出そうとしている人間がいました。

彼の名は夏目漱石
東京大学の教授の内示を受けながら、これを辞して朝日新聞に入社したといわれます。
この時漱石不惑の40歳。

この文章は夏目漱石が大学の教職を辞して朝日新聞に入社するに当たり
新聞の紙面に掲載されたものです。

漱石は、あの小泉八雲の後任として東京大学の英語教官として赴任しましたが、
学生にはいまひとつ不人気でした。
それは必ずしも漱石の責任ではない部分もあるのですが、
もともと神経質でカリカリする質(たち)でしたから
教師には向いていなかったのかもしれません。

文章中、講義がまずかったのは教室の外で吠えていた犬のせいだなどと、
なにか「坊ちゃん」が小説から飛び出して、ひねくれたことを言っているような、
そんな感じすらしますが、
そのように茶化してはいるものの、まあ大学という水が合わなかったのでしょう。

しかし、この転職こそ近代日本文学を大いに前進させる決断となったことは周知の事実です。
49歳で亡くなる10年足らずで、
虞美人草」「三四郎」「それから」「門」「行人」「こゝろ」「明暗」などの作品を次々と生み出し、
小説家という職業作家を創り出した先駆けとなったのです。

とはいうものの官主導の近代化を推し進めてきた明治の世にあっては、
学問における官の頂点である東京大学の教職を辞めて、
今でいう小さな地方紙レベルの規模でしかない新聞社に身を投じるというのは、
極めて大きな決断であったことは間違いありません。

文章中、漱石はしきりに世間がいうほど新聞社に転職するのは悪いことじゃないと
ユーモアを交え、時には茶化しながら述べていますが、
そこには漱石自身の、まだ見えぬ自己の未来への戸惑いみたいな心情も
見え隠れしているような気がします。
文豪漱石といえども道無き道を行くこれからの自分自身の人生について
確たる保証もなく漠然とした不安感を抱いていたのだと感じます。

しかし彼は、ある意味、えい、やあ!と、清水の舞台から飛び降りる覚悟で、
人生においてささやかな安定よりも自己のやりがいを取った。

そういう意味では
「やめた翌日から急に脊中が軽くなって、肺臓に未曾有の多量な空気が這入って来た。」
「余は心を空にして四年来の塵を肺の奥から吐き出した。」
というのは偽らざる思いだったのでしょう。

職業作家としての先鞭をつけ、
日本文学史上に金字塔を打ち立てた夏目漱石でさえ、
自信満々で作家としての道を歩み出したわけでなく、
期待と戸惑い、不安といった現代のフレッシュマン達と同じような心持ちで、
新たな道をスタートさせたのです。

そういう意味で、この作品は、
小説などの作品中では垣間見ることができない
漱石の心情を伺い知ることができるものとして
きわめて貴重なものなのではないかと思います。





朝日新聞に入社した直後の夏目漱石