らんどくなんでもかんでもR

はじめまして。文学や美術、音楽、そして猫のブログをしています。 よかったら、のぞいてみてくださいね。 Nice to meet you. I write about literature, art, music, and cats.

「注文の多い料理店 序」宮沢賢治

 
 
今回読んだ作品は「注文の多い料理店 序」。
「注文の多い料理店」ではなくそれが収録された本の序文です。
なぜ今回物語でなく序文かというと、
宮沢賢治を読む際のエッセンスが詰まっており、
ぜひとも知っていただきたかったからです。

「わたしたちは、氷砂糖をほしいくらゐもたないでも、
きれいにすきとほつた風をたべ、
桃いろのうつくしい朝の日光をのむことができます。」
で始まる美しい文章です。

この中で賢治は、自分が書いた物語は、
みんな林や野はらやらで虹や月あかりからもらつたと言います。
つまり、自分が頭の中で考えて作ったのでなく、
自然の中にたたずんでいるときに、そこで出会ったものから感じた、
ちょっと気取った言い方をすれば、
インスピレーション受けたそれをそのまま書き留めただけだということでしょうか。

そうであるから、物語の意味が考えてもわけのわからないものもあるかもしれないが、
それは賢治自身もわけのわからないものであるとしています。

これは賢治が物語を頭で考えないで、心で感じてほしいことの表れで、
賢治が頭で考えた作品なら、ここはこれこれこういう意味があって、
だからこういうオチにしたんですよ。と説明できるでしょうけど、
感じたものを書き留めただけなのでそれもできないということでしょう。


現在は賢治の時代よりも、考えることがより一層重要視される時代になっています
論理的帰結、くだけていえばオチが常に要求され、
オチがつかないものは非合理的なものとして、
排斥され論理的筋が通ったものだけ尊重される。
論理的思考も現代社会には当然必要不可欠なものですが、
常にそれが求められる現代人は心が疲れてしまっているような気がします。

だからこそ「考える」ということを介在させないで、
ダイレクトに「心で感じてほしい」という賢治のメッセージは、
より大きな意味を持っていると思います。

最後に賢治は
「わたくしは、これらのちいさなものがたりの幾きれかが、
おしまひ、あなたのすきとほつたほんたうのたべものになることを、
どんなにねがふかわかりません。」
と締めくくっています。

わからないからといって拒否して捨ててしまったりしないで、
傍らに置いておいて、いずれの日にかまた目を通した時、心に感じることができればいい。
そういう心構えで読んでみて、物語と自分の心が共鳴した時、
賢治の物語は「すきとほつたほんたうのたべもの」として、
心の中に生き続ける宝になるということだと感じます。

この序文は触れていると、心が温かくなる感じがして、
声に出して何度も味わいたい名文です。

ぜひとも読んでみてください。




 わたしたちは、氷砂糖をほしいくらいもたないでも、
きれいにすきとおった風をたべ、ももいろのうつくしい朝の日光をのむことができます。
 またわたくしは、はたけや森の中で、ひどいぼろぼろのきものが、
いちばんすばらしいびろうどや羅紗らしゃや、宝石いりのきものに、
かわっているのをたびたび見ました。
 わたくしは、そういうきれいなたべものやきものをすきです。
 これらのわたくしのおはなしは、みんな林や野はらや鉄道線路やらで、にじや月あかりからもらってきたのです。
 ほんとうに、かしわばやしの青い夕方を、ひとりで通りかかったり、十一月の山の風のなかに、ふるえながら立ったりしますと、
もうどうしてもこんな気がしてしかたないのです。
ほんとうにもう、どうしてもこんなことがあるようでしかたないということを、わたくしはそのとおり書いたまでです。
 ですから、これらのなかには、あなたのためになるところもあるでしょうし、ただそれっきりのところもあるでしょうが、
わたくしには、そのみわけがよくつきません。
なんのことだか、わけのわからないところもあるでしょうが、
そんなところは、わたくしにもまた、わけがわからないのです。
 けれども、わたくしは、これらのちいさなものがたりのいくきれかが、おしまい、あなたのすきとおったほんとうのたべものになることを、どんなにねがうかわかりません。

 大正十二年十二月二十日
  宮沢賢治

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