らんどくなんでもかんでもR

はじめまして。文学や美術、音楽、そして猫のブログをしています。 よかったら、のぞいてみてくださいね。 Nice to meet you. I write about literature, art, music, and cats.

「さようなら」田中英光



先日、ロンドンオリンピックにちなんで、
オリンポスの果実」というオリンピック選手の青春を描いた、
田中英光の作品を紹介しましたが、
今回は、その遺作「さようなら」です。

彼の言うように
「さようなら」という言葉は、
他の外国語の言葉に比べると、
切なく哀しい響きがあります。

「さようなら」は永遠の別離のような…
確かに、そんな感じを受ける気もします。

この作品は、そのような「さようなら」にふさわしい作者自身の逸話を、
時系列的に幾重にも描写したものです。

幼年期から少年時代、青年期に至るまで、
作者は、様々な人々と、様々な原因で、
「さようなら」を繰り返してゆきます。

同居していた母方の祖母の病死、
厳しくも自分を愛してくれた父のあっけない死、
中学や大学の友人の突然の死や自殺など。

作者の、その人々に対する思いや情感が、
非常にきめ細やかに描かれており、
なかなか読ませます。

しかし、なんといっても、この作品で深く印象に残るのは、
第二次大戦で中国本土に出征した時の
数々の「さようなら」の出来事。

日本軍に虐待された一般の中国人の男性、捕虜になり、
崖から飛び降りて自殺した八路(共産党)軍の中国人の少年、
上官のいじめのようなしごきで、死んでいった戦友。

惨たらしい無慈悲な所業の数々に、
読んで気分が悪くなってしまう方もいらっしゃるかもしれません。


ところで、今月は戦争について、いくつか記事を書かせていただきました。

そこでは、一旦戦争に突入してしまうと、
転がるところまでどこまでも転がってゆき、
その間にどんな悲惨なことが起きてもおかしくない。
人々は一旦戦争が起こった時の惨たらしさを十分心に刻み、
戦争を起こさないよう、心しなけれならない。

というようなことを申しました。

普段、家庭では良き父親、良き夫、良き息子だった人々も、
戦争の魔力とでもいいますか、
心に相手に対する恐怖や憎しみを絶えず植えつけられ、
敵や集団と思いを同じくしない味方の死に対して、
無関心無表情になってゆきます。

作者はそのような戦地での体験から、
戦後、戦争で死んでいった者達を無分別に英雄視する行為に
激しい嫌悪感をあらわにます。

曰わく、
「三千の将兵が蠅捕紙上の蠅みたいに、
戦艦大和にへばりついたまま水底に沈んで死んだ愚かしい悲劇が、
偉大な叙事詩の如く感動的に無批判に書かれたものが、
数十万の人たちに愛読されている」


確かに彼の物言いは、少々偏ったもののように感じるかもしれません。

しかしながら、戦争というものが人間を変えてしまう恐ろしさ、
戦死した人々を誤って英雄視してしまう愚かしさについては、
同意せざるを得ない部分もあります。

ここで注意していただきたいのは、
自分は、戦死した方々を無視して、捨て置くべきという立場ではありません。
彼らの死を尊びながら、決して彼らを、戦争への高揚感、ロマンティシズムといったものに、
利用してはならないと考える立場であります。

彼らの死をそのように利用することは、
死んでいった者達の意志にも反するのではないかと思っています。

彼も戦争が引き起こす人間の醜さ、恐ろしさというものを、
身をもって体験したのでしょう。


そのような前半の描写に対して、
後半の主人公をめぐる女性達に対する「さようなら」の逸話は、
太宰治人間失格」の主人公の女性遍歴の描写と重なります。
まるで、心底慕っていた師太宰治に対する追憶、というような印象すら受けます。

しかしながら描写自体としては、
前半に比し、いささか冗長の観を拭えません。

ただ、翻ってみれば、この「さようなら」という作品の題名自体、
太宰治未完の遺作「グッド・バイ」に模したものといえ、
太宰治に対する深い思い入れの表れなのかもしれません。


作者は、このように様々な人々と「さようなら」をした後、
自分自身が、この世と「さようなら」するのを拒絶しながらも、
生ける屍としての分裂症患者に、自らを照らし、
どうしても抗いきれず、「さようなら」せざるを得ない、
やるせなさ、苦しさ、葛藤、諦念といった、
ぐるぐるした思いを感じます。


「さようなら」は冷たすぎる


作者の、この言葉は、彼の心の内の、どうしようもない寂しさを感じさせます。

作者はこの作品を書いた直後、
太宰治の墓前で睡眠薬服用の上、手首を切り自殺しました。

太宰の自殺に大きな衝撃を受け、睡眠薬中毒になっていたと言われています。

自殺者は人生の敗北者。
と切り捨ててしまうのは簡単ですが、
そこに至るまでの過程にじっくり分け入ると、
人間誰しも持っている心の弱さとの葛藤といったものが垣間見え、
感じ入るものがあるのも確かです。

文学においても幾たびもテーマとして繰り返されているのは、
そんなところに原因があるのかもしれません。




青空文庫「さよなら」