らんどくなんでもかんでもR

はじめまして。文学や美術、音楽、そして猫のブログをしています。 よかったら、のぞいてみてくださいね。 Nice to meet you. I write about literature, art, music, and cats.

「右大臣実朝」太宰治










これはなかなか凄い作品です。
多くの太宰作品の中でも、傑作のひとつといってよいかもしれません。

何が凄いか。
主人公源実朝の生きざまということよりも何よりも、
まずもって、この作品を描いた太宰治にただならぬ凄みを感じます。
青空文庫にして400ページの作品ですが、
ひょっとしたら、彼はこの作品を、一気に書き上げたのかもしれない。
推敲というような、振り向きながら戻っては書いたのではなく、
真っ直ぐ前だけを見て、振り返ることなく、
淀みなく一気に書き切ったのではないか。
読んでいて、太宰治の尋常ならぬ集中力といいますか、取り憑かれた情念といいますか、
そのようなエネルギーに引き摺り込まれ、
この作品の語りに、思わず聞き入ってしまっている自分がそこにいます。


この作品は、実朝の死とともに出家し、隠棲していた近習が、
実朝の思い出を語るという独白の形式をとっており、
ときおり、その合間に、実朝の言葉がつぶやくように、ぽつりぽつりと発せられます。


平家ハ、アカルイ。……アカルサハ、ホロビノ姿デアロウカ。
人モ家モ、暗イウチハマダ滅亡セヌ。


箴言とでも言いましょうか。
漢字カタカナ混じりの表記と相俟って、
実朝の言葉が、読む者に心に深く、ずしんとくる感覚があります。

太宰治という人は、読む人がハッとするようなフレーズを作るのが上手いですね。
「生まれてすみません。」
「富士には月見草がよく似合う」
「子どもより親が大事、と思いたい。」

などなど。
現代に生きていたならば、売れっ子のコピーライターとなっていたかもしれません。


ところで、この作品の実朝に、イエス・キリストの姿を重ねる人がいます。
なるほど、そうかもしれないと思います。
平家を滅ぼし、有力な御家人一族を根絶やしにし、
近親相討ってきた源氏直系最後の血筋として、
その血塗られた一族の原罪というべき罪を背負い、
静かに自分が滅びていく運命を受け入れる右大臣実朝。

確かに、その時代を記述した歴史書である吾妻鏡と実朝の金槐和歌集を併せ見ますと、
実朝独特の、俗を超越した不思議な無常観というものを感じざるを得ません。

そうかそうか、太宰さんは実朝をそのように捉えたのか。
当時彼は「駆け込み訴え」といった聖書をベースにした作品を発表するなど、
聖書にのめり込んでいましたから、
作品の背景の、太宰さん自身に興味のある方にとっても面白いでしょうし、
それから離れて、源実朝という人間の、
その独特の無常観の根源は何かということを、じっくり考えるにしても、
この作品はいろいろなインスピレーションを与えてくれるものです。


なお、この作品の実朝の姿に、太宰自身を重ねる人もおりますが、
自分は、実朝を暗殺した甥の公暁に、
より、その似姿を看て取ることができると感じます。



死のうかと思っているんだ。……京都は、いやなところです。
みんな見栄坊です。嘘つきです。口ばかり達者で、反省力も責任感も持っていません。
だから私の住むのに、ちょうどいいところなのです。
軽薄な野心家には、都ほど住みよいとこはありません。
……どうしてだが、つい卑屈なあいそ笑いなどしてしまって、

自分で自分がいやになっていやになってたまらない。
……死ぬんだ。私は、死ぬんだ。



太宰さんの作品は、どこか必ず彼自身を彷彿とさせる描写が出てくることが多く、
それが太宰さんの太宰さんたるゆえんなんですが、
公暁が、一族の故郷である東国から逃れるように都に移り住み、
独り自分の行く末に悶々としていたところが、
故郷の津軽を離れ、東京で暮らしていた太宰さんにシンクロするところがあったのかもしれません。

唯一、公暁の描写部分だけが、

源実朝の意識から、ふと現代に立ち返る瞬間でもあります。
これは誉め言葉でもあり、貶(けな)し言葉でもあります。
一言でいえば、太宰さんらしいとしか言いようがありません。









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「右大臣実朝」太宰治