らんどくなんでもかんでもR

はじめまして。文学や美術、音楽、そして猫のブログをしています。 よかったら、のぞいてみてくださいね。 Nice to meet you. I write about literature, art, music, and cats.

【人物列伝】3  高杉晋作 後編

前編で高杉晋作及び彼の属する長州藩は、日本の先駆けであったと言いました。

しかし最初から長州藩の全てが、高杉晋作の味方であったわけではありません。

前編でも述べましたが、
先駆けになるとはスマートでかっこいいものでなく、苦しくて乗り越えられそうにないような試練の連続です。

今回お話する「功山寺挙兵」は、それに関する象徴的かつ最も印象的なエピソードです。

前提として背景を説明しますと、禁門の変により長州藩は朝敵となり、
幕府による第一次長州征伐が行われ、長州藩はこれに屈服。
藩政の実権は俗論(保守)派が握ることとなりました。
俗論派は厳しい粛清を行い反対派を処刑暗殺し、幕府に服従の意を表しました。
更に俗論派は功山寺に潜居していた公卿を移送し、志士の後ろ盾を完全に廃し弾圧を強化しようとしました。

そんな折、俗論派の粛清から逃れ亡命していた高杉晋作は下関へ戻り、
彼の虎の子の奇兵隊に決起を促そうとします。

しかし隊を統率していた隊長に時期尚早と反対され、
圧倒的兵力を有する長州藩正規軍と戦うことに反対する者多数で、決起を拒否されてしまったのです。
この時高杉は、かなりの激を飛ばし決起を促したようですが、それでも奇兵隊は動きませんでした。

この時あなたならどうしますか?

ほとんどの人間が様子見か再亡命だと思うのですが、高杉晋作は集められる人数だけで決起しました。
その数かき集めに集めてもわずか84人。
それに対し敵の俗論派は数千、更にその後ろに控える幕府軍は十万に及びます。

高杉晋作は玉砕覚悟で決起したのでしょうか。

前編でも述べましたが、彼は物事を為すべき「時」というものを、実によく知っていた決断と行動の人でした。

今決起しなければ、永遠に機会が失われることを感じていたのと同時に、
彼なりに合理的根拠に基づく勝算があったんだと思います。

高杉晋作功山寺で公卿を前で行った出陣のシーンは、
織田信長桶狭間の合戦で出陣に際し敦盛の舞を舞ったのと並び、日本史上屈指の名場面です。

月に照らされた雪景色の中、出陣の礼式を終えた紺糸威の甲冑姿の高杉晋作は、
出揃った公卿に向かって馬上から言い放ちます。

「これより長州男児の肝っ玉お目にかける」

初めてこの台詞を聞いたとき、本当に心がしびれましたね。

評者の中にはこれを彼が勝ち目の薄い戦いを前に死を覚悟して言った台詞だと捉える人もいますが、
自分はそうは思いません。
おそらく最後のチャンスであろう今回の決起を、
見事モノにしてみせるという自信と意欲の表れだと思っています。
もちろん死の覚悟はしていたでしょう。
しかしそれは悲壮な覚悟でなく、自分の力を最大に発揮するための力みなぎるものであったと思っています。

出陣後の彼の行動はまさに電光石火かつ合理的なものでした。
まず資金を得るために、下関の奉行所を襲う。
そして藩の海軍を奪い、敵に海からの攻撃を予期させ兵力を分散させる。

そして何よりも高杉晋作挙兵し下関一帯を制圧すとの情報は、
俗論派による弾圧に息をひそめていた人々を勇気づけ、続々と高杉に加担し始めました。
しまいには当初参加を渋っていた奇兵隊の面々も参加し、陣容は整いました。

この後スムーズに長州藩を制圧できれば良かったのですが、
なかなか彼の思惑通り人が動かず多少もたつきますが、数カ月後長州全土を制圧します。
わずか84人の決起が見事長州藩を動かしたのです。

この後第二次長州征伐で十万の幕府軍に対しわずか数千の長州藩は勝利を収め、
今度は日本国中を動かし、薩長同盟等急速に倒幕に向かって進み始めます。

細かく見ていくと、長州藩制圧後亡命を余儀なくされたり、
第二次長州征伐の小倉城攻防で苦戦したり本当にスムーズに進まないんです。

しかし高杉晋作は冷静に合理的に対処し、常に最後には勝利を勝ち取りました。
彼は、決して勝算ない戦場で部下をやみくもに突撃させたり、
自分が突っ込んだりという無茶はしませんでした。
そう意味で、彼は常に冷静かつ合理的で辛抱強く、非常にタフでした。

吉田松陰より
「生きている限り大きな仕事が出来ると思うならいつまででも生きよ。
死ぬほどの価値のある場面と思ったらいつでも死ぬべし。」
と教示されていたそうですが、
高杉晋作は生き抜いて大きな仕事を為し、その教えを守り抜いたといえるのではないかと思います。

次回ちょっとだけエピローグ書いて終わります。