【人物列伝】3 高杉晋作 エピローグ
数年前のある春の日自分は会社に出張を命じられた。
「4月14日山口県防府及び下関に出向いて業務をするように」
思わず嬉しくて飛び上がった。
なぜならその日は高杉晋作の命日だったからだ。
1866年8月第二次長州征伐が高杉晋作の活躍もあり、長州藩優勢のまま終結。
その直後肺結核が悪化し喀血。
翌年4月14日父母、妻妾、友人らに看取られながら死去。享年27歳。
当日朝一番防府で所用を終え、JR山陽本線小月駅にて途中下車しタクシーにて、
「4月14日山口県防府及び下関に出向いて業務をするように」
思わず嬉しくて飛び上がった。
なぜならその日は高杉晋作の命日だったからだ。
1866年8月第二次長州征伐が高杉晋作の活躍もあり、長州藩優勢のまま終結。
その直後肺結核が悪化し喀血。
翌年4月14日父母、妻妾、友人らに看取られながら死去。享年27歳。
当日朝一番防府で所用を終え、JR山陽本線小月駅にて途中下車しタクシーにて、
「そうですね~、年に一度行われる市民マラソンのスタート地点なので、
その時は賑わうんですけど、他はよほどのマニアでないとなかなか行かないですね」
小さな苔むした墓石が静かに並んでおり、
坂の行き止まりの平たいところに、高杉晋作と苦楽をともにし、
彼の死後剃髪し、墓守になったおうの(梅処尼)の墓がちょこんとたたずんでいた。
彼の死後剃髪し、墓守になったおうの(梅処尼)の墓がちょこんとたたずんでいた。
更にその奥に高杉晋作の墓があり、
命日ということもあり法要が行われており、読経の僧侶を始め数十人ほどの人々が集まっていた。
どういう関係の人々が集っているのか非常に興味があったが、そこは宮仕えの悲しさ。
どういう関係の人々が集っているのか非常に興味があったが、そこは宮仕えの悲しさ。
下関の所用に間に合わなくなるので、
功山寺に向かった。
ここから高杉晋作と84人の同志が出発して維新が始まったんだと、
思わず門構えの木の柱を何度もさすった。
境内に入ると仏殿やらの建物が当時のまま残っている。
有名な「これより長州男児の肝っ玉お目にかける」の台詞は、この辺りで発せられたのだろうかとか、
集ってくる同士を待って静かに目を閉じて座っていた石段はここだろうかと、
暫くうろちょろしていたが、
雄々しく馬に乗って戦装束をした高杉晋作の銅像を見つけると
「尾張浪人山崎平八郎(仮名)、百数十年遅参いたしましたが、回天の義挙に加わるべく参上致しました」
とちょっと傍目からは、とても恥ずかしい
歴史オタ全開みたいな事をしてしまった。
でもやらないと気が済まなかったのです。「尾張浪人山崎平八郎(仮名)、百数十年遅参いたしましたが、回天の義挙に加わるべく参上致しました」
とちょっと傍目からは、とても恥ずかしい
歴史オタ全開みたいな事をしてしまった。
功山寺挙兵で主力を為した遊撃隊は、諸藩の脱藩者で構成されていたから、
あながち間違いではないし、それに小声で言ったので周りに迷惑はかけてない(はずだ)。
そうこうして小一時間たたずんで、
そうこうして小一時間たたずんで、
士庶の別なく名もなき隊士の霊標まで同じ高さになっている。
ちょうど桜が散った直後で、桜の花びらを敷きつめた上に、霊標が乗っているかのようであった。
独特のおごそかな雰囲気があり、心が不思議と落ち着く場所で、
世にいうパワースポットというのだろうが、その言い方は安っぽく感じる。
「心静かに穏やかになれる場所」という言い方がふさわしいような気がする。
数百の霊標が静かに春の下関の町を見下ろしており、
頬に当たれば誰もが微笑まざるを得なくなるような暖かく心地よい春の風。
高杉晋作を表すのに言い得て妙な名だと、桜山神社の春風を受けながら一人納得した。
最後に、社殿完成の際、高杉晋作が神前に捧げた詩を披露してエピローグを終わりにしたいと思います。
猛烈奇兵何所志
要将一死報邦家
可欣名遂功成後
共作招魂場上花
猛烈の奇兵何の志す所ぞ
一死をもって邦家に報いんと要す
欣ぶべし名を遂げ功成るの後
共に招魂場の上の花とならん
最後に、社殿完成の際、高杉晋作が神前に捧げた詩を披露してエピローグを終わりにしたいと思います。
猛烈奇兵何所志
要将一死報邦家
可欣名遂功成後
共作招魂場上花
猛烈の奇兵何の志す所ぞ
一死をもって邦家に報いんと要す
欣ぶべし名を遂げ功成るの後
共に招魂場の上の花とならん