らんどくなんでもかんでもR

はじめまして。文学や美術、音楽、そして猫のブログをしています。 よかったら、のぞいてみてくださいね。 Nice to meet you. I write about literature, art, music, and cats.

「行乞記」種田山頭火

「朝湯こんこんあふるる真ん中のわたくし」
「分け入ってっても分け入っても青い山」
「窓開けて窓いっぱいの春」
「まっすぐな道はさみしい」

今挙げた俳句を見て面白いと思った方は種田山頭火の事をおそらく好きになれるはずです。
山頭火は自由律俳句の大家ということですが初めて見ると五七五調でないため俳句なのか単文なのかわからないところがあります。
特に最後の句などはなんとも不思議な感じで俳句というよりは今はやりのツイッターという感じでつぶやき風俳句とでもいいましょうか。
他にツイッター系では

「旅の宿の胡椒のからいこと」
「こんなにうまい水があふれてゐる」
「水飲んで尿して去る」なんてのもあります。

自由律俳句というのは形式にとらわれない俳句のことですが、仏像でいえば円空仏、書道でいえば草書みたいなものなのでしょうか。
今回読んだのは山頭火が昭和5年秋から年末にかけて主に九州を旅した日記の分ですが、まあとにかく酒と朝湯が大好きな人で、行乞相つまり行く先々で人々に喜捨してもらいながら旅費を稼ぎ旅を続けたようです。
阿蘇山近辺はとても良い伏流水が出るのでさぞかし美味しいお酒といい温泉にありつけたことでしょう。
心から温泉を楽しんだようで温泉に関する俳句は秀句が多い感じがします。

「あふるる朝湯のしづけさにひたる」
「ひとりきりの湯で思ふこともない」
「刺青あざやかな朝湯がこぼれる」なんてのもあります笑。

山頭火は漂泊の旅人と形容されることもあるようですが西行法師などのように厳しい克己の修行の旅という感じは全くなく気ままに朝湯朝酒でむしろ楽しそうな感じすらします。
同宿者にも普通な感じで苦情っぽい俳句を作っています。

「痰が切れない爺さんと寝床をならべる」
「きちがいが銭を数へてる真夜中の音」
ちょっと怖いですが…

こんな感じですから行乞記を読むと言葉は悪いですが山頭火の禅僧の出で立ちは旅費稼ぎに仮託したものではないかとすら思ってしまうほどです。

文体も前に読んだ「伊良湖の旅」と異なり平明な感じでブログっぽいといいますかそんな感じです笑。
ただ俳句に関してはその感性はさすがと思わせるものも多く詠んだ瞬間句の情景がぱーっと広がって思わずほんわかしてしまうようなものが多々あります。

「酔うてこおろぎと寝てゐたよ」
「霧島は霧に隠れて赤とんぼ」
「おべんたうをひらく落葉ちりくる」
「水音といつしょに里へ降りてきた」
などなどです。

評者によっては一見あっけらかんとした俳句の中に山頭火の暗い過去に対する葛藤があるみたいなことを言う方もいますが確かにそれは否定しえない部分もあるかもしれませんが、自分は山頭火という人は対象を瞬間的直感的に捉え人の心を衝く感性を持った人で自分の過去の感情を俳句に練り込むタイプではないような気がします。
自分は山頭火の背景はウィキペディア程度しか知らないのでわかりませんが行乞記とそこに収録されている俳句を見るとそんな感じがします。
その辺りは後日他の作品を読んでみて宿題にしたいと思います。